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2009年11月

これ万事、、、

僕はほとんど全てのスポーツ観戦が好きですが、特に格闘技ではボクシングが好きです。レスリングやその派生した(僕にはよく分からない)あれこれは、ちょっと苦手。演出のあるアメリカの格闘技とかはほとんど嫌い。

それで、亀田興毅VS内藤大助の試合も当然テレビで観戦したのでした。

僕は、どちらの選手も好きですが、とくに亀田興毅は以前からのファンで、少しだけこちらをひいきにみていました。

内藤にしてみれば、亀田一家は厭わしい存在だったかもしれません。特に、前回の試合はよろしくなかった。

けれども、皮肉なことに、前回の反則試合があったからこそ地味な内藤は一躍世間の注目を集めることになったのでした。意図しなかったとはいえ、内藤が今あるのは間違いなく亀田一家のおかげなのです。

人間万事塞翁が馬とはこのことを言うのでしょう。

それで、無理矢理ですが、しばらく前から5月の検疫のことを考えています。僕は、検疫なんて完全に素人なので、これまで検疫のもつ意味や「その成果」については口を閉ざしてノーコメントでした。いまでも、特にコメントできることはありません。

ただ、今になって思い返すと、あのときの検疫騒ぎが今意図せぬところで活きているように思います。それは、もちろん検疫そのものがもつ目的ではないでしょうし、当事者も「狙っていた」わけではないでしょう。

あれだけ「過剰に」騒いだおかげで、日本ではついに感染症の本質的な議論を国民を巻き込んで行うことができるようになりました。MRSAでもAIDSでもO157でもSARSでもどうも尻切れトンボだった感染症対策ですが、政権交代もあいまって、そして圧倒的なネットの情報力というおかげもあって、これまでとは違う議論の力学が働いています。感染症界を大改善するよいチャンスでもあります。もし、アメリカのように「普通のインフルだから」みたいにさらっと前半戦を戦っていたら、今のような議論の盛り上がり方はなかったでしょう。あの「過剰反応」は不要の要だったのかもしれません。

まあ、何を持って「過剰」とするかは目的によって異なります。各人が異なるゴールを目的に定めていたら、議論は噛み合いません。当然、検疫は国内患者持ち込みを阻止できませんでした。そんなことできると思っていた人もいなかったでしょう。目標の立て方って大事です。

チェルシーにいたホセ・モウリーニョはプレミアを制したのに、解任されました。オーナーの目指すゴール、ビジョンに合致しなかったからです。サー・アレックス・ファーガソンは就任数年は鳴かず飛ばずでしたが、今や世界トップチームをこれだけ長く率いる監督はこの世にいません(後任が大変だけどね)。ゴールの立て方によって、優勝できなくても残留し、できても解任なのです。

長い間、日本の場合は、そもそもゴールやビジョンが皆無でした。このことだけでも、大進歩です。

新規HIV感染は減っている(国外の話ですが)

http://www.infectiousdiseasenews.com/article/50907.aspx

アフリカでもアジアでも新規感染の減少がみられます。画期的なことです。日本もそろそろ本腰を入れないと、またしても「20年遅れ」になりかねません。

本日のMGH

ローテートしているY先生から

http://content.nejm.org/cgi/content/extract/352/6/609

なかなかに面白かったです。社会歴はあえて外してプレゼンされたのがよかったですよ。

ローマ人の、、、

先日、ローマ帝国の展覧会を堪能しました。すごかった、、、気がついたら、五味先生もご覧になっていた。

この辺の歴史は、僕の理解では教科書数頁でさらりと流されていました。勉強不足だったんです。最近、塩野七生の「物語」を読んでいて、強く意識化されました。このシリーズ、数年前に1回挫折したのですが、今年になって言葉や時間に対する感受性が飛躍的に高まったので、再読しています。すばらしく、面白い。まだハンニバル戦記なので、アウグストウスには遠いですが、、、

さてと、移動中に池谷裕二の「単純な能、複雑な私」を読みました。借りた本なのにあちこち犬の耳を作ってしまいました。こりゃ、面白い。必読です。

既存の脳科学の本もけっこう読んでいるのですが、ほとんどの場合、正直、「うさんくさい」という感想が先に立つ。オールマイティーを主張する科学本にろくなものはない。池谷氏の本は、脳のワンダーワールドに狂喜する自分を表現している本です。そこには地平が開かれている。だから、読んでいてとてもすがすがしい美しさと納得を感じさせます。

さて、現在、HIV関連の翻訳、論文の執筆、明後日のAIDS学会の発表などを同時進行で準備中。来年新連載の企画も準備中。明日はオフィスに行った後、昼に医師会の講演、夕刻から名古屋入り。土曜日は鳥取で講演。あれこれ書類やら会議やら報告やら、、、、、こんな綱渡りができているのも、優秀な医局員と秘書と山の神様のおかげです。感謝。

プロフェッショナリズムを定義しない。教えもしない。

以前から読みたいと思っていた「白衣のポケットの中 医師のプロフェッショナリズムを考える」を読みました。JIMに連載されていたものもちょろっと読んでいたので、それも思い出しました。

特に、事例ごとにまとめてあるので、「どういう状況でプロフェッショナリズムが問題になるか」を具体的に例示しており、観念論に陥りがちなこの議論をよりリアルなものに仕立てています。

その一方、本書の構成そのものが皮肉にも明示したプロフェッショナリズム議論の本質的な問題点もあきらかになってきました。

多くのエピソードでは、個人のがんばりではどうしようもない問題、医療崩壊やモンスターペイシェント、医療ミスや転院拒否、検査の強要などリアルな問題を扱っています。しかし、その解決案(まとめ)の多くはチームでのシステム整備や患者への情報提供、挙げ句の果ては医療制度の改善までがそのソリューションとして挙げられているのです。プロフェッショナリズムがテーマなのに、最初からプロフェッショナリズムを放棄しているようにすら見えることすらあります。

システムや制度の外部にあるのがプロフェッショナリズムです。制度化されたらそれは単なる「ルール、規則」に過ぎないのです。プロフェッショナリズムとは極めて自律的なものであり、それは周囲の困難が強烈であればあるほど必要とされます。周囲の困難がなければ、プロ意識なんて議論の対象にならないですしね。周囲の困難がプロフェッショナリズムを放棄させるのではなく、その逆なのです。

医師憲章を暗記してもプロフェッショナリズムとは呼べないし、それを教育したことにはならない。本書はそのように正当に看破しています。しかし、その医師憲章そのものは著者によってまるまる受け入れしたり、そうでなかったりと整合性は取れていません。錦織論文では、憲章は議論の土台であるべきだとし(37p)、宮田論文では「我が国でもこの定義を採用して施設内で共有するのがよいであろう」(210P)と割と丸呑みです。

プロフェッショナリズムが自律的で内省的で、そして内的な概念なのに、そもそも「プロとはこんなものだよ、こうあるべきだ」と外的に規定することが根本的に、本質的に矛盾している、という部分もわりとさらっと流されています。ここでも、できることが語られるのではなく、できないことを議論すべきなのでしょう。

37頁には「憲章」の引用でdialogueということばが用いられています。プロフェッショナリズムは例示できますが明示(定義)できません。プロフェッショナリズムは教えることがおそらく不可能で、語られるべき(dialogue)概念です。常に語り続けながら、あるべき姿を模索していくしかない、そういう概念であると思います。

僕は、だから憲章も議論の対象にすべきで「飲み込む」対象にするのはおかしいと思います。患者の福利優先は本当に正しいのか?正しいとすればどこまで正しいのか?本書で行われている議論は実は、「患者の福利優先、って本当に「基本」なの?というメッセージに満ちているのですが、そこはさらっと逃げられています。「医師は患者の自立性を尊重しなければならない」??本当ですか?「正直でなければならない」??僕は患者さんに嘘つかないと3日と持たないですよ。というか、嘘こそがぼくたちの日常のコミュニケーションをやっとこさ保持してくれているのです。「嘘をついていない自分」なんて、それこそ嘘だ。

だから、本書でも「答え」を提供している(あるいはしようと試みている)論文より、「問い」を提供している論文により共感を覚えました。尾藤論文(31p)のもやもやや、浅井、白浜論文がそうでした(196P)。語り続け、問い続ける。学問とはもともとそういうものでしょう。ソクラテスやプラトンの頃から。でも、日本の教育は「答え」を出すことに一所懸命すぎる。だから、安直な回答で満足しそこで思考停止に陥ってしまう、、、、

漢方診療を今後どう考えるべきか?

事業仕分けはいろいろなことをやっているので、その及ぼす影響の範囲も大きいですね。さて、漢方診療の保険適応外しが大きな問題になっています。

http://www.yakuji.co.jp/entry17252.html

漢方医療が保険収載されるようになったのは、武見太郎氏の影響が大きかった、というのは有名な話です。

http://web.sc.itc.keio.ac.jp/kampo/index_1-01.html

で、僕も外来ではよく漢方薬を処方するのですが、この問題については割と考えさせられます。

「漢方薬」を保険収載するという意見、外すという意見は対立的ですが、両者の裏にある構造は全く同じです。「漢方薬」ということばそのものがグループになっているのです。

通常、僕らが医薬品の保険診療を語る場合、その採否を「グループ」で取り上げるということはしないと思います。「抗菌薬」や「降圧薬」であるという理由で保険適応になるのではなく、「○○マイシン」はどの病気に効くから、、、と個別に議論されます。ましてや、「西洋医療」とか「欧米医療(というものがあるとして、、)」であるという理由で採否が決まることもないでしょう。

なぜ、漢方薬は「グループ」で扱われるのでしょうか。それは、漢方診療が他の診療とは区別される別個の概念だからでしょうか。また、別個の概念だとして、それは特別扱いされるような個別性なのでしょうか。それは、属性故の個別性なのか、あたかも文化財のように「保護しなければ滅びてしまう」存在であるからなのか、、、、

僕は、そうではないと思っています。漢方薬も漢方診療も薬や診療の一バリエーションに過ぎず、その部分には(他の部分にあっても)個別性は無いと思います。歴史性?や生薬というコンセプトならジギタリスやキニーネ、アーテミシニンにもあります。「証」にしても、実はすべての医療判断や診断は「見立て」なので、「証」だけに特権が与えられる個別性は、根源的にはないのです。これは現在取り組んでいる新しい診断学の考え方で議論する予定です(今は煩瑣になるので、ここでは割愛)。

だから、漢方診療「だから」保険適応を除外、という議論も、また漢方「だから」残す、というのも同じ根拠で間違った議論であると僕は感じています。このような書き方をしてしまうと、両サイドから怨嗟の声が上がりそうですが、、、、、ただ、ある「立場」から切る、残すという議論をすればこれは単なるパイの奪い合いになってしまう。このようなポリティクスもプラグマティズムの立場からはよいのだ、という意見があるかもしれませんが、このような議論構造だと漢方薬は未来永劫「仕分けられる」リスクをのど元に突きつけられながら、おっかなびっくりの存在を余儀なくされてしまいます。僕自身が漢方薬を処方している医師だからこそ、この脆弱な構造の綱渡りには危惧を覚えます。実際に過去にも同じような議論、嘆願運動、継続という歴史があったようですし。

ちなみに、漢方薬は有効かどうか、という議論については近著「感染症は実在しない」で吟味しました。

ここでも問いの立て方、議論の仕方の組み直しが必要なのでしょう。僕はそう思います。

私家版・ユダヤ文化論

内田樹さんのハードな本。読むのにえらい時間がかかりました。

なぜ、ユダヤ人が迫害されるのか。それには必然的な理由なんてない、という世界観から人々はこの問題を解釈します。迫害されるいわれがないのに迫害される。この物語を受け入れると、いつかは迫害ゼロの時がやってくる。それに否、と突きつけたところがこの本のすごいところだと思います。だれもがさらっと前提にしているところにたいていピットフォールがあるのです。

ファシストとは違う階級が融合して一つになるということではない。そうではなくて、本来混じり合うはずのない階級が出会うことなのである。

ファシストになることによって、貴族はますます貴族的になり、労働者はますます労働者的になるのである。

専門家が自分の熟知している分野のことを語ると、「話のつじつまが合いすぎる」ということが起こる。 輪郭のなめらかな、あまりに整然とした論述は、私たちの記憶にとどまらない。

ユダヤ人がユダヤ人である時、彼はユダヤ人である。ユダヤ人がユダヤ人でなくなろうとするときも彼はユダヤ人である。ユダヤ人はユダヤ人であることによって罰せられ、ユダヤ人でなくなろうとすることによって罰せられる。

誠に深いことばでした。

抗菌薬ドラッグラグの克服のために

海外で使われている、日本にない抗菌薬。昔のものも多いので、臨床試験をやり直して、というのは現実的ではありません。公知申請などを用いて迅速に実際的に導入できると良いと思います。海外のデータで充分な有効性と安全性が示されている、歴史的な批判に耐えている薬、例えば点滴メトロニダゾールなどはすぐに入れても良いのです。臨床試験をしなければならない、というのは思い込みに過ぎません。

でも、日本人は海外の人とは違うかもしれない。思わぬ副作用が出るかもしれない。

という「いいわけ」はできるでしょう。経口メトロニダゾールでは出ない思わぬ副作用?

でも、そもそも日本人特有の副作用、ってなんでしょうか。表面的な議論で思考停止に陥らず、もう少し考えてみたい。

これを知るには、「これまで海外で認可されていて、日本で申請され、安全性の懸念のために承認されなかった抗菌薬がいくつあるか」という命題に答えればよいでしょう。

この命題には答えが与えられません。承認されなかった薬についてのデータが非公開だからです。

今月のロハス・メディカルで堀明子先生がその問題を指摘しています。承認された薬のみならず、承認されなかった薬の情報を提供しなければ、PMDAや厚労省の審査の正当性は我々には分からないのですから、これは公表しなくてはいけません。医薬品とは、製薬メーカーのプロパティのみならず、医療者やユーザーたる患者の持ち物でもあるからです。

そして、もしそれが公開されたら、海外で承認された抗菌薬で「日本人の特有の事情で」承認されなかった抗菌薬がいくつあるかが分かります。たくさんあれば、日本で独自の臨床試験が必要でしょう。

僕の想像では、たぶん、そんな事例皆無かあってもまれでしょうけどね。

方針が変わるのはOKなこと

ようやく、不評だった10MLバイアルは中止になりました。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20091117-OYT1T01053.htm?from=any

僕はこのことについて反省があって、10mLバイアルの話があったときに強固に即座に反対しませんでした。すればよかったのですが、他の議論でかかりきりになっていたのです。後で決まってから文句を言っても仕方がないのですね。

で、気がついたときは手遅れでした。仕方がないので、「もう決まったことはしようがありません。でも、現場から怨嗟の声が起きますよ。保証しておきます。覚悟しておいてください。そのときは直してください」と、お願いしました。

ちゃんと直してくれて厚労省には感謝です。

新興感染症に不測の事態はつきものです。新しいデータは出てくる、これまでの常識は覆される。それが絶対について回ります。初期の計画を完遂なんてしていたら、大変なことになります。そのことを僕らは5月に思い知ったのでした。

数年前の厚労省(あるいは霞ヶ関全体)は決まっちゃった方針は何が何でも方針は変えない、といういけずな意固地な組織でした。今の組織はすばらしい。間違いをすることは仕方がない。間違いを認め、それを直す勇気と知性に拍手を送りたい。

厚労省がころころ方針を変えると混乱してだめだ!と怒っている各部署の皆さん。それは、普段自分たちで考えていないからなのです。厚労省の指示待ち屋になってはだめです。自分の頭で考えないと。自分たちでどうあるべきかしっかり考えていれば、厚労省の朝令暮改は、(少なくとも改善している間は)歓迎すべきなのです。

ジャーナリズムの衰退、そして繁栄

杉田敏さんの「ビジネス英語」。とばしとばしですが、もう20年くらい楽しんでいます。本当にすばらしい番組です。

速報性のある新聞をあまり読まなくなりましたが、このビジネス英語のビニエットを聞いていると現代アメリカのトピックや問題点がよく分かります。今回はジャーナリズムの話。すでにアメリカの新聞はどんどん廃刊になり、1万人のジャーナリストが職を失ったそうです。しかし、大学のジャーナリズム講座には希望がどんどん増えている。その謎に迫っています。

iphoneでオーディオブックにすれば容易に2倍速で番組が聴けるので、これまで消化しきれなかった番組もなんとかこなせるようになりました。2倍速は速いけどね。ついていけない、、、

そのテキストから気に入ったことば。

If practice makes perfect and nobody's perfect, then why practice?

quote of the day

ギリシア哲学の勉強を始めたいと思っているところ、、、

Anybody can become angry, that is easy. but to be angry with the right person, and to the right degree, and at the rigth time, and for the right purpose, and in the right way, that is not within everybody's power and is not easy.

Aristotole

事業仕分けは産みの苦しみ

事業仕分けが騒ぎになっています。でも、これは急に生まれてきた新しい産物ではなく、大蔵省、財務省主計局が「こっそり」バックヤードでやってきた「出し渋り」を公開しただけの話だと僕は理解しています。「議論が足りない」という批判もありますが、ではこれまでは充分な議論をしてきたのだろうか???いままでだって、予算を認めるにせよ、拒絶するにせよ、おそらくは「素人」が適当にやっつけ仕事をしていたのだと想像する。文科省の概算要求にせよ、科研費にせよ、、、、、

それが、公の場であきらかになったのです。無駄の暴き出しもさることながら、これまでいかに日本の政治がいい加減であったかを詳らかにした、という大きな成果もあったと思います。だから、僕はこの仕分けを様々な問題のあることを認識しながらも、ある程度好意的に受け止めています。仕分けにまつわる本質的な問題の全ては、要するに今までほったらかしていた問題なのです。

したがって、現政権はおそらくは第二段階を考えているでしょう。「あんな無茶な仕分けがあるか」という非難に応えなくてはならないからです。民主党の資源はなんといっても国民の支持「だけ」ですから。

あと、「事情の分からないひとが勝手に決めて」という批判もありますが、「事情が分かっちゃう」とだめになることもあるのです。インサイダーですからね。●○の専門家に、●○人材育成機構の予算をカットできるか?というはなしです。こういう「仕分け」を内部事情にめちゃくちゃ詳しい人がやると、たぶん完全な骨抜き状態になるでしょう。なかなかこの辺は難しい。

日曜日に患者さんの容態が思わしくなかったので車で病院に。何となく訊いていたラジオの討論番組で普天間基地移転問題が議論されていました。僕のような素人にも、よく分からなかった事情がたくさん教えてもらえて良かったです。その一方で、「僕ら玄人には全て分かっているんです。総理や内閣だけが理解していない。答えは一つしかない」という主張が少なからずあり、ちょっと違和感を覚えました。「その道にどっぷり浸かった人」に任せると正しい答えが出てくるか?しかも、それは唯一の正しい答えか?歴史は断固として、ノーと教えているのです。

今週のNEJM

今週のNEJMは感染症のネタが多いです。

まずは、WHOが今年ユニバーサルに予防接種を推奨しているロタウイルス感染症。こないだ、家庭医療セミナーでも同じ話をしました。アフリカなど地域によっては、人口十万人あたり300−500人も亡くなっています。下痢症はマラリア、エイズ、結核、呼吸器感染と共に人間を死に至らしめる大きな原因です。

次に、オーストラリア・NZとアメリカのH1N1に関するレポート。南半球での季節性とH1N1のプロポーションを知りたかったのですが、それについては情報なし。流行らなかった、という意味なのでしょうか。今年の冬、季節性インフルがどのように振る舞うかの予測に重要だと思いますが、どなたかご存じ???

つぎにワクチンの交叉抗体。昔の人は、少しは守られている。

MGHケース。これはネタバレになるので読んでください。

咀嚼なき輸入物の誤嚥

日本人は必ずしも換骨奪胎は苦手ではないと思います。

手塚治虫がディズニーをモチーフに多くのストーリーマンガを作ったのは有名な話ですし、その手塚がバックボーンになって多くの優れた漫画家が育っている。浦沢直樹のような存在すら生まれており、PLUTOは象徴的な産物となりました。

村上春樹もカーヴァー、チャンドラー、フィッツジェラルドなどのアメリカ作家の翻訳から自らの小説のスタイルを紡ぎ出しています。その村上が世界各国で読まれている。1Q84は中国語圏にも輸出されたそうですが、ジョーと読む9とQをどのようにかけるんでしょう、と余計な心配をしています。

車にしてもオーディオにしてもそうですね。したがって、一部の教育界と感染症界において上手に換骨奪胎が行われていないのは、日本人論や日本文化とは何の関係もなく、単純にこれらの領域が未成熟だ、ということを示しています。食わず嫌いか、咀嚼なき誤嚥のどちらかに傾く場合が多いのです。よく噛んで、食べなきゃ。

厳密に運用すべきではない、ワクチン接種

新型インフルエンザと季節性インフルエンザ。若干の違いはあっても極端な違いはありません。細かな差異よりも、相同性により注目すべきです。

さて、こんなニュース。

http://www.asahi.com/special/09015/OSK200911110156.html

もちろん、この病院は全然悪いことをしていません。僕が同じ立場でもそうしたでしょう。完全なる公平性を希求して、ワクチンを捨てるくらいなら、身近な人に接種した方が頤位に決まっている。厚労省の優先順位はあまり厳格に運用するとおかしくなってしまいます。朝日も、イヤらしい書き方をするな、と思いました(なぜいやらしいかというと、明らかにネガティブに誘導するような書き方をしておきながら厳密には批判のことばを入れていないからです。「別に、、、、あったことをそのまま報道しただけですよ。判断するのは読者です」。と言い抜けできるのです。いやらしいなあ)。

どうせ季節性ワクチンは早い者勝ちです。ダブルスタンダードが最初からデフォルトで組み込まれているのに、ヒステリックなまでの平等性や公平性の希求は精神の矮小さを育てるだけです。もっと大人になるべきなのです。あからさまなネポティズム、立場の乱用がいい、といっているわけではないですが。

新型インフルニュースの陰で、、、

こんなはなしが。大野事件以降、警察・検察の考え方もずいぶん変化しているのでしょうか。

http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=16730

延命中止の2医師不起訴へ…富山地検

プログラム責任者講習会つづき

今回、新たな知識として加わったのが研修制度評価機構です。ただ、評価内容は(例の、あの評価機構と同じで)形式主義的だなあ、と嘆息。相も変わらずGIO、SBO、RUMBAなどのチェック。本当に見るべきはどこなのでしょうね。ちょうど、PMDAのヒアリングをやるとかやらないとか議論があったそうですが、何を知りたいのかによってチェックすべきことが分かります。関心相関的態度とはそういうものでしょう。

あと、KJはアイコンタクトの阻害になることがタスクの間で認識されていました。だったら、なぜ続けるんだろ。KJは切片を使ったり、概念化をして島を作るところはとてもGTAに似ています。でも、理論的飽和に至る(近づく)まで議論を重ねてこその概念図で、ざらっと短時間にやる場合は「一所懸命がんばりました」という実感しか得られないか、表層的な概念図で真相が見えなくなるかのどちらかでしょう。実は普通に議論したほうがよいのでしょう。

プロフェッショナリズムの項目は概念、用語の誤用が多数見られました。もちろん、イズムですから、主義主張、主観が入ってしまうのは仕方がない。10人に問われれば10通りのプロフェッショナリズムが出てくるでしょう。けれども、定義、属性、モデルといった概念の間違いは問題でした。これも、多くの哲学的命題と同じく咀嚼なき輸入物の誤嚥、、、か。

今回、2日目の午後に体操が入っていました。ほとんどの方が密度の濃い研修と疲労をもんだいにされているので、あれはとても良いアイディアだと思いました。ぜひパクリたいです。

根拠となる論文

先の文書でも引用した論文。西浦先生がモデルをお作りになりました。僕もちょこっと参加しています。

http://www.eurosurveillance.org/ViewArticle.aspx?ArticleId=19396

A simple mathematical approach to deciding the dosage of vaccine against pandemic H1N1 influenza

1回打ちにしたい根拠

こないだの会議で提出した論考です。ご一読ください。

国民全員にワクチンを 岩田健太郎 神戸大学感染症内科 20091110

 予測によると、成人換算で入手可能なインフルエンザH1N1ワクチンは「2回接種」換算で7700万人程度(15400万回分)と見積もられています(101日厚労省「基本方針」より)。

 10mlバイアルは18人分という計算だそうですから、ある程度の誤差はあるでしょう。廃棄が多ければより少なく、インスリンシリンジなどを用いて工夫したらもっと多くの方に接種できるかもしれません。小児の場合は接種量が少ないですから、それも勘案できるでしょう。

 不特定な要素をいくら議論しても仕方ありませんが、おおざっぱに言えば現段階でほぼはっきり言えることがあります。それは、1回接種を原則とすれば、ほぼ日本国民全員にこのワクチンを提供できるであろう、ということです。

 結論から申し上げます。私はこの時点で、「重症化を防ぐために」政府がたてた目標である「ワクチンが必要な人数」5400万人という数字を放棄することを提案します。そして、「希望すれば」国民全員にこのワクチンが提供される体制に転換することを望みます。また、そのゴールを達成するための「戦略的な見地から」予防接種回数を「原則」1回とすることを提案します。例外として6ヶ月から9歳までの小児を2回接種の対象とする。要するに、私個人の見解も以前のもの(1回か2回かはデータを見て決めるべき)という見解から変じているということです。

 ではなぜ、今方針転換を必要とするのでしょう。

 もともと、私は(物理的に可能であれば)国民全員にワクチンが提供できる体制が望ましいと主張してきました。5400万人という人数に絞るという方策には科学的な根拠が乏しいです。米国を始め多くの国ではpriority listこそ作っていますが、基本的には希望すれば国民全員(正確には住民全員)にワクチンが提供できる体制をゴールとしています(1, 2)。また、その理由には「集団感染の防止」という目標が(他の目標同様)明快に掲げられています。たとえば、季節性インフルエンザワクチンの医療従事者への予防接種の目的には、「感染を減少させること」もその目的として明記されています(Vaccination of HCP reduces transmission of influenza in health-care settings) (3)。日本のそれだけが、頑迷に「重症化を防ぐ」ことのみに執心しています。

 季節性インフルエンザワクチンが他人への感染性を減らしたり、集団感染予防に役立つだろうことを「示唆する」論文は多々あります。米国では学童への経鼻生ワクチンが家庭内感染を予防するというスタディーが発表されています(4)。不活化ワクチンについても同様の結果が出ています(5)。我が国のデータでも小児へのインフルエンザワクチンがherd immunityを成し、流行を防ぎ、高齢者の死亡を減らすことが示唆されています(6)。この研究は専門家委員会の田代先生も参加されたものです。我が国では前橋リポートのみがことさらにとりざたされますが、ある研究のみ注目して他の研究は黙殺する、という態度は科学的ではありません。EBMEvidence based medicine)の概念の無かった時代の前橋リポートは、アウトカムの設定などにいくつかの重要な問題点があります。例えば、後生の論文と比較し、高齢者のハードアウトカムなどが吟味されていません (7)。科学的議論とは、ある論文と別の論文に対して同じ透徹した視線で吟味することを言います。ある学説を支持する論文はことさらに取り上げ、そうでない論文はこき下ろすという態度は許されてはいけません。

 新型インフルエンザについても、最新の研究ではワクチンは感染性を減らすという前提で議論が成されています(8)。西浦と私が提出した論文では、herd immunityのあるなしでシミュレーションしていますが、herd immunityが無いと仮定した場合でも1回接種で倍の人数にワクチンを提供した方が2回接種で半数の接種をした場合よりも有症状者は減ることが示唆され、もしherd immunityがある場合でも、1回接種の効果が2回接種の効果の50%以下でない限り(そのようなシナリオは理論的にはかなり考えづらいですが)、やはり1回接種で倍数接種の方が利益が大きいことが示されています(9)

 もちろん、このようなデータは大規模ランダム化試験などを経由したハードなエビデンスではありません。しかし、それをいうなら、新型インフルエンザワクチンに関して政府の言う「重症化を防ぐ」というエビデンスは皆無です。それを「示唆する」臨床データすら存在しません。季節性にしても、重症化や死亡を減らすというエビデンスは高齢者主体で(10, 11)、新型インフルエンザ患者の最大のポピュレーションである若年者に対してはそのエビデンスは希薄なのです(12)。これは当然のことであって、若年者におけるインフルエンザは(季節性、新型共に)基本的には自然軽快する疾患です。もともと死ににくい病気の死亡率をさらに下げるというのは非常に困難です。だから、若年者に対してワクチンはefficacy(おおざっぱに訳すと理論的な効果)こそ高いがeffectiveness(おおざっぱに訳すと現場での効果)が低く、高齢者についてはその逆なのです。

 前述の厚労省資料には、「インフルエンザワクチンは、重症化等の防止については、一定の効果が期待」「感染防止の効果は、保証されていない」と記載されています。

 これには論理的、本質的な誤謬があります。そもそも、「期待」と「保証」は背反する概念ではありません。期待しつつも保証できないものだってあり、またその逆も真だからです。新型インフルエンザワクチンが、まさにそうです。このワクチンについていろいろなことを「期待」することは可能でしょう。重症化も、感染防止も、「期待」はできます。しかし、抗体価の測定のみでクリニカルなデータが(正当な事情あってのことですが)皆無な状態では、何の保証もありません。一方(重症化の防止)については勝手に期待し、他方(感染防止)については「保証できない」と断罪する。非科学的な議論がここに展開されています。全てのアジェンダは、等しい眼差しで見据えなければならないのに、こなたそなたでダブルスタンダードを用いているのです。

 ここで誤解してもらっては困るのは、私はかつてのような(実質上)強制性を伴う集団接種を主張しているのではないということです。また、私は1回打ちと2回打ちのどちらが(いろいろなパラメターから)より有効か、という点を議論しているわけでもありません。

 私が主張しているのは、我が国で入手できる15400万回分程度のワクチンを、まずは1回接種に用いた方がより戦略的に運用できる、という点です。そして、もしワクチンが(接種希望者が少ないなどで)余ったり、さらなる生産体制や輸入体制が整ったら(必要に応じて)追加接種をすればよいのです。一般的に、追加予防接種の間隔が延びることはその効果を減じません(13)。必ずしも4週間後に接種と決めつける必要はないのです。1回打ちでも2回打ちでも必ず「1回目」は必要です。「どちらが正しいか」を議論するのではなく、「まずは1回打ってから議論しましょう。データを集めましょう」という戦略的態度を提案しているのです。

 国民全員に提供できるワクチンがあれば、現場は大変助かります。小児に対する接種を前倒ししたことは英断ですが、小学校高学年以上にもできるだけ早く接種すべきです。また、基礎疾患の「優先」「最優先」を厳密に区別する作業そのものが現場を混乱させ、困難を与えています。最優先者を集め優先者を後回しにして10mlバイアルが無意味に破棄されるリスクも検討しなくてはなりません。最優先者、優先者の区別は緩やかにし、臨機応変に接種できるほうが現場は助かるでしょう。その方法を担保するのは、ワクチンの「数」です。

 すでに前回の会合で主張したように、なすべきは「東京駅のタクシー乗り場」であり、「ノアの方舟」ではありません。全員が接種できることが担保できていれば、あとは「どちらが先」という相対的な問題になります。しかし、「接種できるか、できないか」という絶対的、切り捨ての論理が出てくると問題です。新型インフル患者を診察する医療者と、その医療事務を取り扱う事務職員では、どちらも院内感染のリスクを持っています。前者が優先され、後者が無視されるのでは現場のルサンチマンは避けられません。それは、絶対的にワクチンが足りない、という前提であれば容認せざるを得ない問題かもしれませんが、1回接種の戦略はこの前提を覆します。

 本日閲覧した厚労省の資料では、入院患者数は通算5072人。そのうち基礎疾患を持たない者は60%以上です。彼らを守らなければなりません。年齢別で見ると、約60%は1歳から9歳の小児で、約25%は10-19歳の青少年です。彼らを守らねばなりません。他方、死亡「率」が高いのは成人です(14)。こちらもやはり大事です。

 つまり、守らなくてもよい人なんていないのです。

 厚労省はワクチン接種の目的を「死亡者や重症者の発生を減らし」「患者が集中発生することによる医療機関の混乱を防ぐ」としています。その目的に照らし合わせて、ワクチン接種が「必要ない」人物はいません。そして、すでに医療機関は大いに混乱しています。

 以上で私の論考を終わります。賢明な専門家の方々の忌憚のないご意見をお願いしたいと思います。

1. CDC. Questions & Answers 2009 H1N1Influenza Vaccine. http://www.cdc.gov/h1n1flu/vaccination/public/vaccination_qa_pub.htm

2. Use of Influenza A (H1N1) 2009 Monovalent Vaccine

Recommendations of the Advisory Committee on Immunization Practices (ACIP), 2009. MMWR. 2009;58(Early Release);1-8 http://www.cdc.gov/mmwr/preview/mmwrhtml/rr58e0821a1.htm

3. Influenza Vaccination of Health-Care Personnel

Recommendations of the Healthcare Infection Control Practices Advisory Committee (HICPAC) and the Advisory Committee on Immunization Practices (ACIP). MMWR , 2006; 55(RR02);1-16

4. King Jr JC, Stoddard JJ, Gaglani MJ, et al. Effectiveness of School-Based Influenza Vaccination. N Engl J Med 2006;355:2523-32.

5. Piedra PA, Gaglani MJ, Kozinetz CA, et al. Herd immunity in adults against influenza-related illnesses with use of the trivalent-live attenuated influenza vaccine (CAIV-T) in children. Vaccine. 18;23:1540-8.

6. Reichert TA, Sugaya N, Fedson DS et al. The Japanese Experience with Vaccinating Schoolchildren against Influenza. N Engl J Med 2001; 344:889-96.

7. 前橋市インフルエンザ研究班. ワクチン非接種地域におけるインフルエンザ流行状況. http://www.kangaeroo.net/D-maebashi.html

8. Khazeni N, Hutton DW, Garber AM, Effectiveness and Cost-Effectiveness of Vaccination Against Pandemic Influenza (H1N1) 2009 Ann Intern Med ; published ahead of print October 5, 2009, http://www.annals.org/content/early/2009/10/05/0003-4819-151-12-200912150-00156.abstract?sid=7d01fd66-599e-4f65-9143-ac700cec7107

9. Nishiura H, and Iwata K. A simple mathematical approach to deciding the dosage of vaccine against pandemic H1N1 influenza. Eurosurveillance, Volume 14, Issue 45, 12 November 2009 http://www.eurosurveillance.org/Default.aspx

10.   Jefferson T, Rivetti D, Rivetti A et al. Efficacy and effectiveness of influenza vaccines in elderly people: a systematic review. Lancet 2005;366:1165-74.

11. Nichol KL, Nordin JD, Nelson DB, et al. Effectiveness of influenza vaccine in the community-dwelling elderly. N Engl J Med. 2007;357:1373-81.

12. Breese C. Influenza vaccination in children. UpToDate 17.2. last updated June 10, 2009. www.uptodate.com

13. AAP. Redbook 28th edition.

14. Louie JK, MD, Acosta M, Winter K, et al. Factors Associated With Death or Hospitalization Due to Pandemic 2009 Influenza A(H1N1) Infection in California. JAMA. 2009;302(17):1896-1902

ピノノワール、2005年 これはA級

少し前の話。うちのO先生、秘書さんたちと。

トロ・ボー サヴィニー・レ・ボーヌ シャン・シュヴリ モノポール’05

2005年はブルゴーニュの当たり年。本当に美味しいです。これは堪能しました。

本当のところは、、、

人間の自由を奪うものは暴君よりも悪法よりも実に社会の習慣である。

JSミル

 プログラム責任者講習会に出ていました。このために厚労省の会議はぶっちです。

 全体的には、洗練されたタスクフォースたちの動きにとても感心しました。あれはよほど準備して場数をこなしていないと、ああは行かない。事務の方もとても渋い配慮を見せていました。タイムマネジメントもほとんど完璧でした。制度的には、評価機構JCEPの話が面白かったです。

 カリキュラムや評価、メンタリングやコーチングについて、いろいろ考えました。問題は、「できることの提示」ではなく、「できないこと」「困難なこと」の地平を示すことのはずですが、どうしてもこのようなワークショップではできることのオールマイティー性が誇示されがちです。こういうことになっている、という制度説明がなされ、制度やモデルの知識に長けた官僚的にスマートな人が跋扈する仕組みになっています。
 EPOCについても、EPOCに「何ができるか」、が本当の問題ではないのです。その(喧伝されるところによると)あたかもオールマイティーに見える仕組みがどうして現場でこんなに忌み嫌われるのか?という分析が大事なのです。エイズ患者のデータベースであったAネットや、某大学病院の電子カルテもまったく同じ構造で間違っています。そう、EPOCは言ってみれば、ウインドウズビスタなのです。世界一のパソコン会社の世界トップレベルの開発者が作ったはずのウインドウズビスタ。その無謬性が喧伝されても、やはりビスタはダメなOSであり、それは素人の僕ですら正当に確定できたのです。マイクロソフトは、その誤謬に気づいただけ、まだましなのですが。
 評価のもたらす根源的な問題も問いをたててみたのですが、「モデルによるとこうなっています」という表面的な説明で終わってしまいました。評価は必然的に外的動機づけをもたらすが、それを内的動機づけに変換させる条件あるのか?あるとすればそれは何か?夫婦でformative, summativeな評価は行われず、行うことはできず、また行うべきでもないが、それでもなお夫婦が高まりあっていくという事例があるのは何故か?評価の前提は本当に正しいか?
 評価は手段であり、目的ではない。誰もがそういうでしょう。しかし、実質的には、評価は明らかに自己目的化しているのです。
 多くのモデルが提唱されます。学術界では新しいモデルが大量生産されるインセンティブがあるからです。そしてその賞味期限はどんどん短くなっています。最新のモデルを追っかけるこの構造そのものがすでに限界なのかもしれません。
 すべての行いには瑕疵があり、それに自覚的でなくてはいけません。瑕疵に自覚的なものだけが真にその長所を(逆説的に)もっとも理解するのです。
 しかし、多くのWSでは、既存のシステムやモデルの説明と正当化だけが巧妙に行われます。問題点の抽出は都合が悪いので黙殺されます。みなで話し合いましょう、先生はいません、正しい答えはありません。これがWSの基本です。しかし、それらはすべてまやかしで、巧みな出来レースで、実際にはできあがった結論に導かれるだけなのです。KJ法やらプロダクツの作成は汗をかいて一体感を醸造するための演出であり、新しい価値を模索したり「地平」を探すなんてことをやるのはタブーなのです。これが形式こそが本質に優先される日本の教育界の構造です。多様性は本当は希求されず、予定調和こそが求められている全てです。
 我々はできることばかりに注目します。内田樹氏が「レヴィナス」で指摘したように、行うべきは「できないこと」に注目することなのですが。
 多くの参加者が形式を学び、形式こそが本質であると誤解し、満足して去っていきます。このことが吉報なのか凶報なのかは今のところよく分かりませんが、少なくとも形式がぐるぐる回って自己完結している組織の教育に、「目覚めた人」を生み出す力がないことは間違いないのでした。

 さてと、考えが煮詰まってきました。こういうときは、簡単な料理を作って、ワインの香りを楽しんで、大切なものを取り戻すだけです。それだけ。

あれこれの論文

JAMAは新型インフル特集です。特にN95とサージカルマスクに差はないという研究と、カリフォルニアの重症化、死亡者のデモグラフィックが参考になりました。

NEJMでは、パピローマウイルスのoncoproteinに対するワクチンを「患者」に接種して病変が改善した、というもの。ワクチンは病気の予防に使いますが、病気の治療にはふつうつかいません。パラダイムシフトに通じるか、極めて興味深い内容です。

そういえば、丸山ワクチンというのもありました。これは現在どうなっているのでしょうね。

あと、最新号のJIDは世界ユニバーサル接種が推奨されるロタウイルスワクチン特集です。

この週末

土曜日は豊中市の保護者対象に新型インフルの話。一般の方、保護者の方への講演は一所懸命コミットしています。

今日は家庭医療学会のセミナーで天満研修センター。毎年恒例になりつつありますが、今回は新ネタだったのでかなり緊張しました。テクニカルな進歩も目指しましたが、さてどうだったでしょう。

そのあと、「サイドウェイズ」という映画を見に。これはハリウッド映画のリメイク。なかなか日本風によくアレンジしていました。みんな上手かったけど、とくに菊地凛子ってよいですね。ノルウェイの森が楽しみです。

ワイン気分になったのでハーヴィスのエノテカで遅いランチ+ワイン。安売りしていたA級ワインを購入して帰途につきました。飲むのは5年後くらいか、、、

クマに注意

Steel Ball Run の新刊を読みました。ひさしぶりなんで、18巻を読み直さないと話が理解できなかった、、、、

DioとHPが組む、、、というところからしてすばらしい構成。本当に面白い本作です。次はいつ、新刊出るんだろ。楽しみです。

小児接種前倒し

http://lohasmedical.jp/news/2009/11/06210054.php?page=1

英断です。また、保健所などでの集団接種ができるようになりそうです。おそらく、「なにかあったら、誰が責任とるんだ」という責任回避論がでるでしょうが、何かあったときに責任を取るのがプロです。ぜひ、子どものために各自がプロとしての誇りを持って仕事をして欲しい。

それに、アナフィラキシーがあったとききちんと対応ができる日本の病院ってそんなに多くは、、、、BLS, ACLSのような義務ないですし。

欧州の医学教育

10月発行の「医学教育」において、海外の医学生教育の視察報告があります。オランダウオッチャーの岩田としては、オランダのシステムをまず読み、それからドイツやスペインのそれを読むことにしました。

よく言われる日本のメディカルスクール制への提言ですが、あれは18歳で医師という進路を決めるのは早すぎる、それが日本の医師の適性を低めている。という論旨です。しかし、ちょっと考えてみるとこの論考はおかしい。

1.オランダなど、多くの国では高卒後6年制である。ペルーのように8年制の所もあるが。
2.これらの国の医師がとりたてて非倫理的であったり未成熟である、というはなしは聞いたことがない。
3.むしろ、僕の経験や欧州の医師からのコメントだと、メディカルスクール制をとっているアメリカの医師の方が「childish」にみえる。曰く、すぐ金の話をする、すぐ自分の権利ばかり主張する、議論が薄っぺらく、白か黒か、フェアかアンフェアかでしかものを考えない、我慢が出来ない、など。スマートだが、深みがない(例外はたくさんあります。勤勉でない日本人もたくさんいるのと同じように)。
4.大学に長くいると、人がより成熟する、という前提そのものがそもそもおかしい。普通は逆ではないだろうか。

ときに、今回は「視察報告」のわりには情報量が少なくてちょっとがっかりです。制度的な紹介が多くて、こんなのインターネットとメールでいくらでも得られる情報に見えます。実際の医学生や医師とインタビューしたりして、もっと熱い息吹が感じられる報告ならいいのに、わざわざ現地に行くのだったら。

僕の経験では、日本の「視察団」は見学し、説明を受けるだけで質問をしない。問題点を掘り起こそうとしない。表面的な解説で、満足してしまう。そういう傾向にあると思います。アメリカや中国にいたときは、こういう「視察団」のお世話を何度もしたので、、、、でも、どうせ向こうはいいことしか言わないですよ、そういう構造では。

形式ばかりにとらわれて、問題の根っこをつかみ取ろうとしない。これは日本のあらゆるセクションに見られる悪弊です。学校教育から、学び覚えるだけで、考える訓練を受けていないからで、自分の知識構造の作る世界の中で満足してしまっている。「なんでも知っている、なんでも分かっている(つもりの)」秀才ばかりが増えていく。

むしろ、増えるべきは「私には何も分からない、理解できない、納得いかない」と言える人なのに。

不明熱のDVD

新しいDVDのご紹介です。不明熱まとめの4回シリーズ。沖縄県立中部病院きってのエース、西垂水先生のご登場です。面白いぞ!

重症化の予防と声高に主張するのはなぜ?

季節性インフルエンザワクチンが他人への感染性を減らした り、集団感染予防に役立つだろうことを「示唆する」 論文は多々あります。インフルエンザワクチンのherd immunityはあると考えた方が妥当で、たとえば院内感染 予防においてもそれは期待できます。CDCのガイドラインにもそれは明記されています。最近では、米国は医療従事者が新型ワクチンを打つのは「患者の蔓延を守るため」と明記しておりこれが義務とするよう働き掛けているくらいです。

http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/hotnews/int/200701/502204.html

http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/15694506

http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/17008123?ordinalpos=1itool=EntrezSystem2.PEntrez.Pubmed.Pubmed_ResultsPanel.Pubmed_SingleItemSupl.Pubmed_Discovery_RA&linkpos=4&log$=relatedreviews&logdbfrom=pubmed

http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/18820568?ordinalpos=1&itool=EntrezSystem2.PEntrez.Pubmed.Pubmed_ResultsPanel.Pubmed_SingleItemSupl.Pubmed_Discovery_RA&linkpos=3&log$=relatedarticles&logdbfrom=pubmed

http://www.cdc.gov/mmwr/preview/mmwrhtml/rr5502a1.htm

新型についても、最近こういう論文も出ています。

http://www.annals.org/content/early/2009/1/05/0003-4819-151-12-200912150-00157.long

もちろん、「エビデンス」には乏しい、という批判はあるかもしれません。しかし、それをいうなら、政府の言う「重症化を防ぐ」なんてエビデンスは皆無です。それを「示唆する」臨床データすら存在しません。

よく、日本では前橋スタディーが取りざたされます。僕も昔原文を読んだことがありますが、当時はともかく現在では方法論的に問題ありありで、政治的な意図がなければこれ(だけ)を根拠に集団免疫を否定することはできません。

政府が「重症化を防ぐ目的で」と主張するのは、賛成はしませんが一定の理解はします。これは「意見」ですから、たとえ自分と異なる見解であろうと、尊重はしたい。でも、最近、そうではなくて厚労省官僚でも「重症化を防ぐだけで、感染予防には役に立ちません。蔓延も防ぎません」と「うそ」を言うことがあります。うそをつくことは、絶対に許容できません。た だ間違えているのか、わざとやっているのかはわかりませんが。

ところで、ではなぜ政府はこんなに躍起になって「重症化を防ぐため」と強調しなければならないのか、という疑問が湧いてきます。それについて、私は仮説こそ持っていますが、証明する回答を厚労省やその他から得ていません。でも、もしそれが本当だとしたら、それはとてもとても僕たちにとっては腹立たしい理由ではないかと思います。

ついでに、財務省について。財務省のニュースはほぼ皆無ですが、新型インフルエンザ対策の意思決定にかなり強い影響力を持っているようです。厚労省の方とお話しすると、二言目には、「でも財務省がなあ、、、」といわれます。財務省がどのような見解を持っており、どのくらい意思決定に関与しているのか、国民は知る権利があります。当然あります。

ACIP の決定は財務から完全に独立しており、そのミッション「ワクチンで予防できる病気はとことん予防する」を達成するのに障害がないよう配慮されています。今みたいに財務省が暗躍する日本の構造では、せっかくACIP日本版を作っても絵に描いた餅になる、似て非なるものになってしまう可能性が高いでしょう。

厚労省官僚は感染症、新型インフルエンザの素人です(経験、知識共に)。その素人が、さらに輪をかけて素人な財務省官僚に牛耳られているとしたら、こんなに腹立たしいことはないでしょう。僕の見解が間違いなら、誰かきちんと訂正して欲しいですけど。

本日から発売です

で、新刊は本日から発売です。どうかお読みくださいませ。

たまにはA級、、、

出版記念に、豪華なA級ワインと美味しい料理。堪能しました。

シャンボールミュジニー ミッシェルグロ 2005

2005年は当たり年で、素晴らしい香りのピノノワールでした。

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新刊です、、、

今日は年安全研究センターの企画で、お昼に神戸駅の近くでインフルエンザの話。通行人の中で、恥ずかしかったっす。

裏番組で大阪の内田樹さんと池谷裕二さんの対談。こっちは聴きに行きたかった、、、が、山の神に委託。

新しい本を出します。「感染症は実在しない」。本当は、去年の12月に原稿はあがっていたのですが、それから激動の日々を経過して、推敲に推敲を重ねた本です。面白いと思ってくださる方もいるでしょうし、くだらねえ、と思われる方もおいででしょう。そんな本です。新型インフルエンザのさまざまな難問の答えは、たいていこの本の中に入っています。

22世紀に読みたい本、という企画で、「レヴィナスと愛の現象学」を取り上げるので、再読しています。よい本です。自分の知らないこと、できないことこそ俯瞰しておきたい、そんなふうに思います。

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