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2010年2月

予防接種法にあしたはあるか?

以下の文章を書きました。ご参照ください。

ビジョンなき「予防接種法改正」の提言 

岩田健太郎
神戸大学都市安全研究センター医療リスクマネジメント分野
神戸大学医学研究科微生物感染症学講座感染治療学分野

 2009年のインフルエンザA感染症の流行(パンデミック)を通じて我々は多くを学んだ。もっとも価値のあったのは、「日本の感染症対策はあらゆる層において遅れている」という我々感染症のプロが長く苦痛に感じていた事実を、国民的なコンセンサスとして共有できた事であろう。これまで、私は何人もの関係者に「日本の感染症界はこれではダメだ。改革が必要だ」と説いてきたが、「そんなこと国民も学会も求めていないじゃないですか」と木で鼻をくくるようなあしらいを受けてきた。新型インフルエンザを通じて、これまで看過されてきた問題が顕在化したのである。
 麻疹が未だに流行する、子どもの命が髄膜炎や喉頭蓋炎で失われる。ワクチンそのものが疾患を起こす生ワクチンでなく、不活化ワクチンを使えばあり得ないポリオの発生が未だに起きている。

麻疹情報(感染症情報センター)
http://idsc.nih.go.jp/disease/measles/
ワクチン接種で減らせる乳幼児の細菌性髄膜炎—先進国中最も遅れている我が国の対応
http://www.news.janjan.jp/living/0810/0810119259/1.php
ポリオ:神戸の乳児が発症 ワクチン未接種、経口感染か /兵庫
http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20100219ddlk28040362000c.html

 このような「先進国ならあってはならない厄災」が日本では日常的である。先進国の多くはこの問題を克服している。日本は、克服できるにもかかわらず、やっていない。新型インフルエンザに関わる、解決のしていない問題がうまく処理できなかった事を私は恨みに思わない。分からない事は分からず、できないことはできないのだから。しかし、「できると分かっている事」を看過するのは許容できない。
 常時起きている厄災にはメディアは見向きもしない。メディアが叩かないと、厚労省は動かない。10年前からある1億の借金より、昨日借りた10万円の方がインパクトが大きいのである。このようなメディアの軽薄さが、2009年のインフルエンザに飛びついた。腰の重かった厚労省も動かざるを得ないと考えた。厚生労働省健康局長の上田博三氏は予防接種法を「不退転の決意で大改正に取り組む」と述べたという。

http://lohasmedical.jp/news/2009/12/25125656.php

 これはチャンスである。いきさつはどうあれ、何十年と続いた日本の予防接種システムの遅れを、この機会に一気に挽回したい。
 しかし、2月19日に公表された厚生科学審議会感染症分科会予防接種部門会の「提言」を読んで私は心の底からがっかりしたのだった。

http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r98520000004g8a.html

 この「提言」は叩かれてしかたなく作られた代物である。新型インフルエンザワクチンの運用で起きた齟齬や混乱を修正する部分にしか議論がされていない。そこにはビジョンがない。プリンシプル(原理)もない。ゴールがない。日本を予防接種によってどのような国にしたいのか、何を目指したいのか、見据えていない。叩かれたから、動く。動いてから、なんとなくゴールが決まる。日本は長いあいだこのような「後追いの」構造で政策を決定してきた。しかし、叩かれて仕方なく動くだけならば、そしてその目指すところが不明確ならば、むち打たれて走りまわる牛馬と同じではないか。
 なぜ、日本には定期接種と任意接種が分けられているのか。その定期接種を一類疾患と二類疾患を分ける事がどのようなゴールを日本にもたらすのか。それが国民の健康にどのような寄与をするのか。定期接種とされている予防接種はなぜジフテリア、百日咳、ポリオ、麻疹、風疹、日本脳炎、破傷風、BCGとなっているのか。なぜそれ以外のワクチンはそうではないのか。任意である小児のインフルエンザ菌や肺炎球菌のワクチン、子宮頚癌のワクチン、日本のまだ持たない海外のワクチンは今後どのように運用され、それが何を日本にもたらすのか。これらが定期接種に昇格される可能性はあるのか。ないのならば、どのようにすれば道筋は作られるのか。そもそも、定期と任意を分断する理論的根拠はどこにあるのか。またなぜ「任意」接種だと「有料」だと「決めつけるのか」。そもそも、予防接種のあり方の決定が厚労省があらかじめ準備した資料を厚労省が召還した「部会」で議論する、という従来のシステムで可能なのか。これまでできてこなかったことを、これまで通りの方法論でできると信じて良い根拠はどこにあるのか。今後、新たな予防接種が開発されたときに、現行の予防接種のシステムに常時組み込んでいくシステムがないことを、どうすればよいのか。

 こういった何十年と積み重ねられた問いに対して「私はこう考える」とビジョンを示すのが、「提言」ではないのか。

 上記の命題を厚労省が無視しているわけではない。これらは「議論が必要と考えられる事項」という最後の一項目に矮小化されて「アリバイ作り」がされている。しかし、「予防接種全般について、更に抜本的な議論を重ねていくことにしたい」とはあまりにひどい。提言が、「議論」を求めてどうするというのだ。議論は手段であり、目的ではない。要するに、その他のことには私たちは現在、何の見解も持っていませんよ、と開き直っているようなものではないか。
 予防接種法は抜本的に改正されるべきである。私が提言したいゴールは「日本において、予防接種により、回避できる厄災は全て回避できること」である。アメリカがそうしているように。オランダがそうしているように。WHO(世界保健機関)がそう目指しているように、日本もそこを目指すべきである。ビジョン、見据えた先の世界には、もう小児の髄膜炎もポリオも、麻疹もない。子宮頚癌やB型肝炎は激減している。
 そのゴールに基づいて、ゴールから逆算して手段が決定される。現在有用性が確認されている予防接種は全て適応のある国民に無料で提供されるべきである。インフルエンザワクチンも、B型肝炎ワクチンも、インフルエンザ菌ワクチンも、小児、成人向けの肺炎球菌ワクチンも、子宮頚癌ワクチンも、そうである。有効性と副作用のデータは公表されるべきであるが、その価値判断を国が一方的に行うことは不可能である。だから、推奨されても義務化することはできない。だから、オランダのようにワクチンは「任意だが無料」にし、勧奨して接種率は高いが「義務ではない」のが望ましい。当然、有害事象の補償額にワクチンによる差が生じてはならない。新しいワクチンは次々開発される。予防接種のあり方は頻回に、定期的に見直されなければならない。だから、アメリカのACIPのような独立した、そして最終決定権を持つ委員会が必要になる。日本版ACIPである。

http://www.igaku-shoin.co.jp/paperDetail.do?id=PA02857_03

 今回の「提言」にはACIPのAの字も出てこなかった。部会の委員は当然、日本の予防接種におけるトップオーソリティーたちなはずである。ACIPを知らないはずがない。彼らは日本版ACIPを望んでいるのか、拒んでいるのか。それすら分からない。
 こう書くと、厚労省の官僚からは必ず次のように反論される。「おまえは政治を知らないからそんなことを言うのだ。そんなことあり得ない」と。
 今でも覚えているが、10年ほど前、「日本の医療者はもっと増やすべきだ」と意見して、ある厚労官僚にやはり「お目は世の中が分かっていない。医師は偏在しているだけだ。医師を増やすなんて、そんなことは絶対にあり得ない」と強く反論された。できない理由ばかり探すと、そういう見解になる。しかし、ここ数十年、我々の世の中は「そんなことはあり得ない」と思っていたことばかりが日々起こっているのではないのか?「できない理由」ばかりを探し、「できるための条件」を模索しなければ、もちろん何もできない。たいていのことは、自らが引いた線を「限界」と称しているだけなのである。

 国のあり方についてビジョンを示す第一番目の人物は政治家のはずである。民主党政権は日本の予防接種をどのようにしたいのだろう。民主党政策集によると、

子宮頸がんの予防に有効なヒトパピローマウイルス(HPV)ワクチンの日本での開発を推進し、任意接種に対する助成制度を創設します。重篤な小児の髄膜炎の主要原因菌であるヘモフィルスインフルエンザ菌b型(Hib)ワクチンの定期接種化を図ります。新型インフルエンザ対策も踏まえ、肺炎球菌ワクチン接種の対象年齢を拡大します。

 とある。
http://www.dpj.or.jp/policy/koseirodou/index2009_medic.html

 これらは「方法」であって「目的」ではない。民主党政権は、鳩山総理大臣は、そして長妻厚労大臣は、より明快なビジョンを示し、それを実行する必要がある。が、今のままだと「目的」どころか「方法」すら達成できないのではないか。昨年の選挙で大勝した民主党に、我々国民が何を期待していたのか、もう一度初心に立ち返って思い出してほしい。



 

そういえば

ちょっと追記

指導医講習会について、忘れていたことを、いくつか

・今回、「さん」付けではなく、「先生」と呼んでよいことにしました。普段先生と呼んでいるのに講習会だけさん付けは普通に考えると、気持ち悪い。それがイヤなら、普段から「さん」付けすればよいだけの話。それができないのなら、しなくてよいはず。
・椅子にガムテープを貼って出席人数が足りているかチェック、みたいなアホなことは止めました。事務の方がテープを貼っているのを見てすぐ止めてもらいました。これこそ大人を小学生扱いにしている、象徴的な愚行だと思います。
・プロダクツはできるだけ無視して、「概要と感想」だけ提出を求めました。どうせ報告書は厚労省の人たちも読んでいないし、読んでどうなるものでもありません。写真もSGDのときのスナップ写真のみ。とくに整列もさせず。こないだでた講習会では、集合写真で「もうすこし右によって」みたいにやたらに凝り性のカメラマンのために何十分も費やして非常に不愉快でした。誰も読まない報告書のためにこんな努力をして何が楽しいのか。こういうとことは徹底的に「手抜き」をするに限ります。どうせ事務方にしごとをしてもらうのなら、もっと意味のあるところで仕事をしてもらうほうがよい。一般的に「報告書」が何かの役に立つことは希有なことです。

・オーディエンスから「医学教育の言葉はアメリカからの輸入ばかりで、日本の文化を無視している。これはいけないのではないか」という意見を得ました。全くその通りだと思います。方略なんて、浮世離れした言葉を平気で使ってはいけません。言葉に対する感性を疑われます。strategyは日常用語ですが、方略なんて変なことばを使う日本人は稀。確かに、医学教育のコンセプトは日本にはない。外国から借りてきて輸入せざるを得ない部分は、ある。しかし、それを飲み込んではダメ。噛んで噛みしめて、咀嚼の上で自分の言葉に置き換えなくてはダメです。人の言葉を借りない、自分のことばを使う、は学びの基本中の基本です。

・東京大学の北村先生によると、最近のアメリカは、とにかく「プロフェッショナリズム」を学ぶことが大事、なのだそうです。

そのことが意味することはシンプル。それは、アメリカではとにかくプロフェッショナリズムがなっていないのです。強調される、ということはできていない証拠なんですね。

・せっかくなのでスケートのところは中断してテレビ鑑賞にしました。これはちょっと失敗しました。真央ちゃんの出る時間が読めなかったので折角の講習が中断されてしまいました。しかも、勝って気分良く次の講習、といけばよかったのですが、そうはいかずにむしろ空気が重くなってしまいました。キムヨナが滑った時点でうなだれる人が多かったのが印象的でした。善意が好結果を生むとは限らない、、、思い知りました。

指導医講習会のこと、メンタルストレングス、minimum requirement

神戸大学指導医講習会を行いました。今回は、大改革を行っています。

もともと、指導医講習会については大いに不満がありました。どこに問題の根幹があるのだろう、といろいろ考えていたのですが、いろいろな方とお話をしていて、何となく分かってきました。

うさんくさい。

これに尽きると思います。

・成人教育と言っておきながら、思いっきり上から目線で受講者を子ども扱い
・ワークショップに答えはない、といっておきながら既定路線で答えを提供(強要)
・観念的な行動科学主義
・measurableでないものはだめ、と頭ごなしに否定
・スキルラボに何万円かけて、、、みたいなほとんどの指導医には意味不明な仕事(カリキュラム)を強要
・恣意的である分類がいつの間にか所与のデフォルトになっている不気味さ
・外科系指導医のありかたに対してほとんど配慮なし(プラナーが完全に内科系教育しか考慮に入れていない)
・ポジティブフィードバックが大事といった矢先にできたプロダクトをけちょんけちょんにけなすタスク

医学教育の研究者が机の上で考えた観念的なプログラムで、感想が
・つらかった
・しんどかった
・二度と出たくない

というので、参加者も
「いや、あれは大変だ、と脅かされて嫌々来ました」
なんて言われる始末です。もううんざりでした。

楽しく研修医を教えましょう、と言っておいて、指導医講習会がつまらない、というのはどういうダブルスタンダードか。

というわけで、今回の講習会はなんとGIO/SBOみたいな専門用語は一度も出ず、KJ法も使わず(禁止はしなかったが、どのタスクも使わなかったのでした)、、、三役も作らず(自分たちで勝手に作りました。相手は「大人」ですからね)。タスクの監視もなく。

めざすはアビーロードのような流れる展開、気がつけば終わっていた、という躍動感。まあ、どこまでそれが達成できたかは疑問ですが。

お題は

「何のために研修医を教えるのか?」
「何を教えるのか?」
「どうやって教えるのか?」
「どんな医師に育てたいのか?」
「プロの医者ってどんな感じ?」
「minimum requirementは何か?」
といった実践的なことばかりを取り上げました。参加者の皆さんが、楽しんで、「明日から研修医教えるぞ」という気分になっていただければ、幸いです。

最後の総合討論では、「神戸大学病院はここがだめ」みたいな厳しい意見が相次ぎました。謹んで拝聴し、大学病院でも良い研修病院になれるよう、挑戦を続けることを誓ったのでした。いつかな、10年後くらいか、、、、?

総合討論では司会をしたのですが、あえて発言にばらつきが出るのを妨げませんでした。しばしば、ワークショップでは発言が平等にされることを強調されますが、僕はこれはおかしいと思う。
通常のコミュニケーションでは、各人でしゃべる量に多寡があるのが「自然」です。たくさんしゃべるtalkativeな人もいれば、うんうんとうなずいて他人の言うことに耳を傾けるのが快適な人もいるでしょう。それが、自然な会話。「みんな平等」という極端な平等思想は霞ヶ関とか教育学の専門家のなかの「信念」や「怨念」がオーラとなってよく出てきますが、むりやり作った平等さくらい気持ち悪いものはない。
もちろん、逸脱するような極端な例は問題ですがたいていの場合は、他人を遮ってしゃべる倒すような人はあまりいない。いまどき、そんな非常識なことをするのは大学教授か元大学教授くらいなものだ。相手は大人なんだから信じてあげるべき。成人教育、って口で言っているだけではダメだ。

メンタル・ストレングスをいかに涵養するか、が長い疑問で多くの識者の方に質問していたのですが、あまり良い答えは出てこない。
「メンタルケアは大事」
「研修医が萎縮しないよう」
こういう気遣いは大事ですが、指導医がいくら気遣って研修医を壊れ物を扱うように大事に育てても、社会は厳しい。患者はどなるし、ナースは叱る。出血する患者もいる。そしていつか必ず患者は死ぬ。
これらのことは全てショッキングな出来事。人を萎縮させる出来事。逆に、患者が死んでも平気の平左でいるようでは、それはそれで医師としての適正を欠いている。
患者が死んだらショックに思い、それでも立ち上がる。
優しさと強さが医師には必要です。だから、「萎縮事項」を回避するだけではなく、その「強さ」を育てることが大事になるのです。オリンピックの本番でもびびらず滑りきるためには、強くなくてはいけないはず。それを「天然の強さ」だけに頼るわけにも行かないはず。

そうしたら、I病院のI先生に
「認知行動療法だ」
と教えてもらいました。ようやく納得いく回答を得ました。他にもあったら教えてください。

もうひとつ、初期研修医のminimum requirement、という命題もありました。すくなくとも、厚労省の到達目標は、ぜんぜんぴんとこない。

これについてもすぐ答えは出なかったのですが、今日ふと気がつきました。

初期研修医について、岩田が思うminimum requirement

1. 自分のできないことが何か、力の及ばないところはどこか、理解している。
2. 自分ができないことをどう対応したらよいか、誰に相談すればよいか知っている。
3. 世界観、価値観の異なる「他者」とコミュニケーションが取れる

これだけ。挿管ができるか、中心静脈ラインが入れられるか、心マができるか、結膜炎を経験しているか、EBMが実践できるか、英語の論文が読めるか、プライマリ・ケアができるか(プライマリ・ケアって何?)、こういった事項は全て十分条件だが、ユニバーサルにすべての医師に必要か?というと多分違う。「患者の気持ちが分かる」みたいな分かったようで分からない壮大な目標を立てるのも違う。研究志望者含め、「あらゆるキャリアパス」を貫き、「全ての臨床医」が100%絶対に習得していなければならない事項は(もちろん、できてもよいのだけれど)、実はほとんどない。と気がついたのでした。

いろいろ、、、、

昨日は名郷直樹先生のご講演。亀田総合病院時代もお願いしていたのですが、神戸でもお願いする事にしました。演題は、「人生が百度あれば」。人生いろいろ。どのような過ごし方が一番良いか。その条件をいろいろシミュレーションしてみました。「正しい医療」に揺さぶりをかける感じで、研修医や学生にインパクトを与えたのではないでしょうか。

そのあと会合がいくつかあって、なかなかに忙しい一日でした。その間、ラジオのフランス語講座をさらりと聴きます。関西のフランス人フルート奏者の方のインタビューがでていました。彼女に言わせると、日本とは二重奏の国。近代的な部分と、歴史的な部分が同居している。

そうだなあ、外国人から見るとこのような感想を持つ方が多いようです。

僕らは、普段洋服を着ていて、でも着物の美しさもちゃんと認識しています。毎日着物を着るのはちと面倒くさい。でも、たまには着たい。洋服か、着物か、という問いの立て方をせず、必要に応じて巧みに使い分けています。ま、これが関心相関というやつか。

これを、「近代日本は洋服を着なければならん。着物禁止!」とか、「日本文化を考えると着物を着なければならん。洋服禁止!」なんて窮屈な事を言うたら、それは「野暮」ということのなるのです。賢く賢く、使い分ける。こういうやり方に我々日本人は慣れている。ファンダメンタリズムのリスクを回避する知恵を持っている。

夫婦別姓の議論も、そういう風に語られるべきなのです。黒か、白かというディベートチックな議論はおこちゃま的、アメリカ的にレベルがちと低いのでした。

年度末になり、あれやこれやの忙しい時期です。ちっぽけな国立大学のちっぽけな研究科においてすら、足の引っ張り合いやら縄張り争いやらがあります。学会でもそうです。立場の違い、黒と白の違いの際だちにこだわり、大局を見ないと総倒れです。ものごとはたいてい二重奏なのに。

そもそも、自分一人では寂しいから、自分を承認してくれる他者を希求しているのです。他者を容認できないのなら、自分一人の城に引きこもってしまえばいいだけの話。だいいち、同業者の細かな見解の差異も容認できないような狭量さで、どうして明らかなる「他者」たる患者を診る事ができようか。そのようなシンプルでファンダメンタルな事も理解できない。およそ学会とか大学に、このような愚者がうろうろしている。マイケル・ジャクソンのビデオにでてくるゾンビみたいに、うろうろしている。

奪うものではなく、与えるものになりたい。立場も肩書きも手柄も名誉も、ほしければ(たとえ犬にでも)くれてやるから、くだらない足の引っ張り合いで良心や品格に泥を塗りつける真似はしたくない、しないでほしい。

「そこはおれが日向ぼっこをする場所だ」この言葉のうちに全地上における簒奪のはじまりと縮図がある。

パスカル「パンセ」

彼我の違いはこんなに、、、、

いよいよUEFAチャンピオンズリーグも決勝トーナメント。ここに来るとほとんどが名チーム、好ゲームの連続でのけぞりそうです。ほとんど観れないんですけどね。

ミラン対ManUは期待以上の好ゲームでした。両チーム合わせて30本のシュート。枠に入っていなくてもおおっと思わせるものが多かったです。そこまでのチャンスメークも素晴らしい。スコールズの得点ははっきりいってまぐれだけど、そこにいたるまでのパスワークは完璧で、06年WCのアルゼンチンを思い出させました。ミラン2点目のロナウジーニョのステップも圧巻でした。

僕は20年来のダイハードなManUファンなのでアウェイで3点とっての勝利はもちろん大満足です。ManUは昔からイタリアのチームに強いのです。カカーがいたときはだめでしたが。最近、落ちてきたなあ、と思っていたスコールズがこの日は良いプレーをしていました。フレッチャー、キャリックの名コンビにうまくかみあっていました。その分厚いMF陣にパク・チソンがちゃんと入って機能しているところが、なんとも嬉しいやら悔しいやら。日本人で欧州でここまでチームの中心になって働いていて、欧州のトップクラスで活躍できていたのは奥寺くらいではないでしょうか(当時はブンデスリーガはヨーロッパトップを走っていたのです)。昨シーズンまでいまいちだったナニやエバンスも活躍しており、さすがに選手を育てるのが上手です、このチームは。フレッチャーとか本当に成長しました。デビット・ベッカムもお久しぶりでした。良いプレーでした。

ManUにとって相性が悪いのはこのMF陣よりレベルの高いスキルとパスワークを見せる事ができるチームです。やはり鬼門はバルサかなあ。

ミランもManUも昨年のエースを失って、それでもちゃんと強いチームに仕上げているところは素晴らしいです。久しぶりにロナウジーニョを見ましたが、良いパフォーマンスでした。それでもブラジル代表には呼ばれないのだから、さすがに層が厚い。途中出場のインザーギやセードルフもよかったです。代表には入れない選手でもこのくらいレベルが高い。それにひきかえ、、、とは言うまい。

今朝、朝食時に数分だけバイエルンとフィオレンティーナを見ましたが、ここんとこブンデスリーガもセリエAも全然フォローしていないのでまったく分かりません。ロッベンっていまバイエルンなんだ、、、てな感じです。のんびりたっぷり観戦できる身分に、はよなりたいものです。

夫婦別姓は許容されるべき

僕も昔は夫婦別姓ってイヤだなあと思っていました。家族の絆が壊れるんじゃないかとか。

民主党が進めている夫婦別姓、これは断固みとめるべきです。櫻井さんとか反対しているけど、「許容する」ことと「推進する」ことを混同している。要するに論理的に間違っている。

自分と価値観の違う考え方を許容できるか。これが人間の優しさとか度量とか、その人の価値とかを決定する大きな要素だと思います。自分がするかしないか、好きか嫌いかは別に、あるシステムを許容できるか、それが大事。自分が嫌いだから、他人もそれに乗っかってはダメ、というのが櫻井さんの論拠です。つまるところ、高級そうに見える議論もたいていは好悪の問題に還元されるのでした。あとは、後付けの説明に過ぎないのです。

自分は嫌いだけど、自分ならやらないけど、でも他人がそうするのは認める。

というのが大人の度量です。日本の論壇は(まあアメリカとか、外国もそうだけど)非常に幼児的です、そういうところは。

あるカップルが夫婦同姓を望むなら、それはそれでよい。問題は、それを他人に押しつけない事、ということです。

女の人は姓が変わるとやたらと面倒くさいのです。役所であれこれ、これまでの証書も論文もいちいち改訂、訂正、申し訳をしなくてはならない。イデオロギーの問題ではなく、単に手続き上の面倒くささを解消する、という観点からこの議論は進められるべきなのです。それほど論拠は面倒くさくない。簡単な話なのです。もちろん、フェミニズム云々とも何の関係もない話です。

池田清彦さんが言うように、要するに他人に迷惑をかけない限り、他人(ひと)が何をしようが他者があまりつべこべ上から目線でああしろ、こうしろ言うべきではないのです。文化的根拠もたいしてないし、、、、

たとえば、いま、源氏物語をちまちま読んでいますが、昔は男子の姓に女子が合わせるなんて文化はなかった。一緒に住むという文化すらなく、一夫多妻、多夫一妻もざらでした。「日本文化」なるものを語るときも、何の話をしているのか、いつの文化の話をしているのか、慎重な態度が必要です。文化は歴史により変遷し、そして未来に向かって創り出していくものですしね。

Words of the day

There are three kind of lies, lies, damned lies and statistics.
Benjamin Disraeli

本日のclinical problem solving

こちらもMGH同様、面白いです。短期研修のK先生がプレゼンしてくれました。3ヶ月研修するとかなり力がつくので、皆様もぜひチャンレンジしてください。

http://content.nejm.org/cgi/content/extract/358/14/1496

あと、ついでに今週のイメージも良かったです。

http://content.nejm.org/cgi/content/full/362/6/e15

品格と公人罵倒とメンタルストレングス

亀田大毅が世界チャンピオンになりました。試合は見れませんでしたが。

このことでいくつか考えている事があります。

・公人無制限に罵倒してもかまわない、という「常識」はどのようにしてできたのか
・メンタルストレングスは涵養可能か

の2点です。

さて、亀田が内藤に反則を繰り返し、敗れたときに自分が書いたものを読み返し、反芻し、そのことについて言及したメディアは皆無だと思います。ブロガー、掲示板の書き込み、当時はツイッターはなかったっけ、、、もないでしょう。

亀田はまだナイーブな若者だった訳ですが、彼のミステイクはミステイクとして、それをボコボコに嬲る権利はどこから与えられたものでしょうか。僕はそれをずっと考えてみました。失敗は失敗、愚行は愚行。でも、それを無制限に罵倒する権利が「有名人である」という理由を根拠に正当化されるのはタブロイドを持つ世界中に普遍的な「常識」ですが、本当にそれでよいのでしょうか。彼が例えば、ストレス障害やPTSDになった場合、誰が責任をとってくれるというのでしょう。

僕は、誰にもそんな権利はないと思います。たとえ有名人であっても、建設的な批判を越えた罵倒は寛容してはならないと思います。そんな権利は、メディアにも一般人にも、ない。それに、それは罵倒する側の品格も落とす行為です。

僕は前に、岡田監督は更迭されるべきだ、と書きました。でもこれは単純にアクションの問題であって、純粋に監督としての能力の問題です。彼の人格を貶めたり(とても高潔な人物である事は現役選手の時代からずっと感じていました)、ましてや家族に嫌がらせの電話をするなんて品のない事はしてはならないのです。これはあくまで品格の問題。

人間にはだれにも品格あるところと下品なところがありますが、最近のツールはこの品格を落とす属性を持っています。匿名性のないメールにもフレーミングの問題があり、匿名性が(も)ある2ちゃんねるやツイッター、ブログになるとなおさらです。そこでなされるコメントの正否の問題より、品のなさを僕は問題にしたいなあ。

さて、あれだけ「見知らぬ人たち」にボコボコに嬲られた亀田ですが、本来なら人前に二度と姿を見せたくなかったのかもしれません。見事に立ち上がって世界チャンピオンになったそのメンタルストレングスには驚嘆するばかりです。

ではメンタルストレングスは涵養できるか?

さいきん、研修医が萎縮すると行けないから、指導医は優しく教えてあげないといけない、というのが「常識」となっています。このことに特に異を唱えるつもりはありません。

しかし、医者になった以上、いくら指導医が天使のように優しくても「萎縮したくなるような」ことはしょっちゅう起きます。モンスターペイシェントに理不尽に怒鳴られ、ナースに嫌みを言われ、訴訟でも起きれば(その正否にかかわらず)見知らぬ人からボコられる。血にも汚物にもひるんではならない。

そして、自分がケアしていた患者はときに(そしていつか必ず)死ぬ。人が死ぬのを見ているのはつらい、といっては医者やってられない。

研修医のメンタルヘルスは基本的に予防的です。うつにならないよう事前にケアしてあげる、みたいな。

でも、プロ野球の選手が、「もし当番に失敗してファンに怒鳴られると選手が萎縮すると行けないから、マウンドに上げるのは止めよう」なんてわけにはいかないでしょう?

萎縮してはいけない、と腫れ物に触るようにそのことをタブー視しても現実は変える事ができません。ちょっとやそっとのことではへこたれないメンタルストレングスの涵養は必須ですが、そういう体育会系の臭いのする教養、常識は(繊細な方の多いからだと僕は想像するのですが)医学教育界では鼻つまみ者です。

ウイリアム・オスラーは「平静の心」を説きました。日野原先生もこの言葉を述べています。では、平静の心はナチュラルに得られた人にしか与えられないのでしょうか。それとも育てる事ができるのでしょうか。もし平静の心が医師にとって必携のアイテムであるとすれば、それを持たず、育てる事もできない場合はどうしたらよいのでしょう。ただただ、その場の不都合を見て見ぬをしてごまかすだけなのでしょうか。

僕は、研修医や学生のメンタルストレングスの涵養は必須だと思うのです。でも、どうやってそれを行うのかは僕には分からない。だれか教えてほしいと思っています。

でも、なぜかそのようなことを言う人はいないのでした。不思議というか、まあそりゃそうか、というか。

あ、それで思い出した。最近思っているのですが、じつは教育という領域はアメリカの真似をあまりしてはいけないと思っています。それは、アウトカムがでていないから。

建前上は「涵養する」教育ですが、アメリカは基本、「育ててのばす」のではなく、「伸びる人を採用する」セレクションが基本です。日本もそうだと言われるかもしれませんが、日本はそこまで厳しくない。大学に入ってしまえば、できるだけドロップアウトのないようにボトムアップを一所懸命にやるのが日本のやり方です(場合によってはトップを引きずり下ろそうともしますが)。アメリカは、単に伸びる人をセレクトするだけで、プアパフォーマーは育てる前に捨ててしまうのが基本です。だから、アメリカの高名な医学教育学者が、「学生が萎縮しないよう褒めて育てよう」と声高にいった直後に、「プアな学生をいかに正確に見つけて落とすか」なんて話題を平気で、何のためらいもなくするのでした。しかられるより落とされる方がショックだと思うけどね、僕は。そういうところは気にしないのでした。

日本の教育者は一所懸命に育てようとします。社会に出たら、総括的評価というのもたてまえで、実は形成的評価です。うそだというなら、プアパフォーマーだからという理由で研修終了できなかった人を教えてほしい。それは極めて稀で、病気になったりドロップアウトしない限りは、日本では落伍しない。医局文化の名残なのかもしれませんが、落伍するのは国家試験まで。出世はしないが、クビにはならないのが原則です。(あくまで相対的な話をしています)。

アメリカでは進級できない研修医はそんなに珍しくはないし、クビになった人も僕は知っています。きほん、できなければ切る、の文化なのです。それが悪い、というわけでもないのですが、好悪の観点で言うと僕はこういう文化は好きではない。それよりなにより、本音と建て前の乖離というダブルスタンダードが、品格という観点からはイヤらしくて、いやだなあ。

本日のJクラブ

Contemporary management of and outcomes from cardiac device related infections

PMID 19910314

アイルランドの後向き研究。死亡例との比較では、ペースメーカー感染はリードの数と造影時間、それにデバイスの種類が大事。ICD/PMは感染多い?

Development of reduced vancomycin susceptibility in methicillin-susceptible Staphylococcus aureus

PMID 19769538

MSSAでもVISAになる。使っているとMICが上がり、オキサシリンのそれは下がる。ヘテロVISAになる。という呼称も初めて知りました。なんでダプトマイシンのMICもあがるのか、不明。

Effect of procalcitonin-based guidelines vs standard guidelines on antibiotic use in lower respiratory tract infections: the ProHOSP randomized controlled trial

PMID 19738090

前にもやったPCTの外来での研究。落語と同じで同じネタを何度やってもよい。違う人がやると切り方も変わる。今日初めて気がついたが、この研究は個人の意思決定ではなく、組織でのシステムの有効性を評価したものなのでした。

Diagnosis of acute aortic dissection by D-dimer: the International Registry of Acute Aortic Dissection Substudy on Biomarkers (IRAD-Bio) experience

PMID 19433758

Dダイマーはダイセクションの診断に有用か?MIでも意外にDダイマーはあがる。A先生がいみじくも指摘したように、こういうスタディーはむしろあまり疑ってない人を対象にやると現場では助かる。

HHH regime for arteritis secondary to TB meningitis: a prospective randomized study

PMID 19219569

SAHでやってるHHHを結核性髄膜炎・血管炎でやるとどうか?という論文。どうか?

まだ、間に合う。

以前、岡田監督の更迭案を出しました。サッカー協会の犬飼会長は「リスクが大きすぎる」ので岡田監督は更迭しないと言います。この期に及んで選手の気持ちの問題に還元しちゃうなど、あまりにもアナクロな見解で耳を疑います。

リスクが大きすぎる?

では、更迭しないリスクは小さいものなのか。旅順での愚直な突進のように、「変えない事もまたリスク」なのです。何かをするリスクは過大評価され、何もしないリスクは過小評価されがちです。本当にそれでよいのでしょうか。そう発言するからには、犬飼会長自身、岡田監督と心中、ということでしょうか。心中する気があるにせよないにせよ(まあ、ここまで言っておいてWCで負けて犬飼会長が責任をとらない、ということはよもや無いとは思いますが)、このような玉砕思考がまだ綿々と日本に生き残っている事は驚くべきことです。北京オリンピックの野球からは何も学ばなかったのでしょうか。

日本代表の最終ゴールは6月にあります。決して3年後のチーム作りをやっている訳ではありません。今のままで、6月にベストのチームができる可能性がいったいどのくらいあるのだろうか?という問題です。ほぼゼロ、なのではないでしょうか。

前にも書いたように、岡田監督の人格を問題にしている訳ではありません。80年代の現役選手時代からみてきた岡田さんはその高潔さでむしろ有名でした。彼が怠慢だ、と言いたいわけでもありません。むしろ寝る間も惜しんで日々日本代表の事ばかり考えているに決まっているのです。その力を200%絞りきるまで出しているのに違いないのです。尊敬に値する人物であろう事はその通りだろうし、まえのワールドカップみたいに家族に嫌がらせなんてしてほしくはない。でも、高潔で勤勉なことが代表監督の要件であるのなら、離島のドクターに監督やってもらえばよいのです。

むしろ、全力を出し切っている事が問題なのです。そのことは、今後サッカー協会が岡田監督を叱咤激励したって、もう絞りきった布からはひとしずくだって落ちてくるわけがないことを意味しているからです。

岡田監督が監督として無能だ、なんて極論を言っている訳でもありません。J1やJ2で勝つ実力は持っており、その成果は示しています。ただ、全世界に、ワールドカップ出場国の監督を務める事ができるのは、4年間で30人弱しかいないのです。そういうことなのです。ベンゲルもファーガソンもグラウディオーラも体験した事のない偉業なのです。

韓国に負けた事がいけないのではありません。テストマッチなんて負けたって良いのです。問題は、負け方です。昨日のあれは、10回やっても全然勝てないような負け方でした。韓国選手がペナルティエリア内で露骨で愚かなファウルを侵さなければ、得点すら入っていなかったかもしれません。いろいろ不運もあったかもしれませんが、それを差し引いても正当な負けでした。明日に何の希望も持たせない、完膚無きまでの負け方でした。1974年のオランダや、1982年のブラジルのように、「負けはしたが、、」と感じさせるようなものはみじんもありませんでした。韓国ごとき(あえて言うが)のプレッシャーで攻めあぐんでいて、カメルーンやデンマークや、ましてやオランダとまともに対峙できるわけがない。もう、「ベスト4」なんてことばを使う事すらはばかられます。ホームの国立でここまでボコられて、嬲られて、これで静観する事がリスクを背負わない事だなんて、、

日本の決定力がないのはある程度仕方がない。ストライカーはなかなか育てられない。世界の名伯楽だって、ストライカーはたいていどこかから買ってくるのが通例です。カズ以来、日本にはストライカーらしいストライカーがいない。エースと呼べる人物がいない。そしてそれは日本代表監督のせいではない。

個の力が及ばないのは代表監督のせいではありません。

日本代表選手は世界の中ではセカンドクラスなのは間違いなく、その証拠に欧州のトップリーグで活躍できる選手はゼロなのです。中村俊輔はスペインではレギュラーすら確約できず、スコットランドは欧州の「トップリーグ」ではありませんでした。カズや中田だって欧州では決して活躍できたわけではない。大久保や小笠原は世界では歯が立たなかった。これが日本の選手の実力です。

逆にいえば、監督だけは、監督だけは世界トップレベルを据える事ができるのです。買ってくる事ができるのです。理屈の上では、世界最高の監督だって日本代表監督を務める事ができるのです。

日本代表がワールドカップで勝つためには、個の不利をチーム力で凌駕するしかない。これは全ての識者が言う事です。ということは、個の不利を凌駕できるようなチーム力を構築する、単にレベルが高いだけではなく、スーパーな監督が必要という事になります。オシムを雇ったのはそのようなもくろみの元でした。岡田監督が世界でスーパーなパフォーマンスを示した事はかつて一度としてないのです。今後それが起きる、というミラクルを我々はどのような根拠で信じればよいのでしょう。

フランスW杯の岡田監督はご褒美でした。あのときは出場するだけで大満足で(僕らも満足してました)、ワールドカップは出場してくれた事へのご褒美だったのです。

でも、そのような形でW杯を率いた岡田監督は「勝つために」カズを代表から外したのでした。それがプロの態度だと思ったからでしょう。僕はそれは、プロの態度として正当なものだと思います。だとしたら、勝つためにカズを切った岡田監督が今監督の椅子に居座り続ける事は、ダブルスタンダードなのではないでしょうか。

リアヌ・ミケルスがオランダ代表監督になったのは1974年。最初の試合は同年3月27日のオーストリア戦でした。日本にはもちろんクライフはいませんが、別に今世紀最高の伝説のチームを作ってくれと言っているわけではないのです。まだ、間に合う。

雨の中の

雨の中、本日は大阪市立大学にて講演。多くの人に来ていただき、ありがたいことです。

移動中読んだのが、「はじまりのレーニン」。レーニンへの関心の高まるこの本は、「もう一人の天才」中沢新一著。レーニン、ヘーゲル、ハイデガー、エンゲルス、マルクス、(中略)、プラトンなどとつながっていくストーリーは秀逸の一言。中沢新一はひさしぶり。もう一回読み直す時代に来ているように思います。レーニンという人物にも大変愛着がわきました。次は、トロツキーの「レーニン」を読みたいです。

ビートルズのデジタルリマスターズを聴いています。懐かしい。素晴らしい。

秀逸な問いの立て方

患者に情報を提供するか、否か。

このようなイエス・ノークエスチョンは質問の質としては今ひとつ。

患者に情報を提供しないとすれば、それはどのような条件によるか

こちらのほうが少し成熟した命題。

http://content.nejm.org/cgi/content/full/362/5/380

アメリカでも何が何でもオートノミーバカ、ではなく、このような成熟した議論が行われるようになりました。成長・成熟の証でしょう。

うん、○○は是か非か、というディベート的命題は幼稚な議論のもとになりそうです。○○を容認するとすれば、それはいかなる条件によるか。のほうが成熟した議論を作るでしょうし、対立構造を作りにくい。もし、全ての条件で、ならイエスという見解に変換できるし、全ての条件でノーならその逆でしょう。そして私たちは、いかなる条件でも○○、、、というのがほとんど存在しない事を悟るのです。世の中に例外事項のない存在なんて、ほとんどない。

僕はあらゆるところで言ったり書いたりしていますが「バカ」とは知識の多寡の少ない方、のことではありません。内田樹さんが書くように、

「知的パフォーマンスの向上というのは、「容器の中に詰め込むコンテンツを増やすこと」ではないからである。ぜんぜん違う。」

のです。

バカとは自分が知っている事と知らない事の境界線がよく見えていない事です。自分の知らない事が、分からない。

だから、通常の研修医のチェックリストは間違っているのです。「自分は何ができるようになったか」ではなく、「自分は今多何ができていないか」リストこそが、意味があるのです。できるようになったリストは自分の器が見えません。できないものリストを作れば、自分の地平、自分の器をようやく知る事ができるのです。見るところが完全に間違っているのですね。

日本の不幸は、知とは何かを知の中心地たる(べき)大学や文科省が知らない事にあります。上記の定義で言う「バカ」は実はこの辺では普遍的です。バカでも平気で大学教授とかになってしまう(しかも、定義からして本人はその事実に気づいていない)、このような現実が日本を大変イタタタタな国にしているのです。おまけに、先のブログに書いたように、

たいていの大人は志を失い、魂はどっかに置き忘れ、ひたすら過去の貯金ばかり見せびらかして傲慢で、何か悪い事があると全部「私以外の誰かのせい」。そして眼(まなこ)は濁っています。おまけに品がない。

で、加えてバカ

ということになりますので、これはもう、救いようがないのでした。そういうのと席を同じくして仕事をするのは、もうこれは苦痛以外の何者でもないのですが、不幸にしてそのような機会は必ずしもまれではないのでした。ま、精神修養ですな、これは。

ジェットラグの総説

旅行医学とかで話題になりやすい時差ぼけ。自分のためにも役立ちます。

N Engl J Med 2010;362:440-7. by Sack RL. Powered by OmniOutliner

ジェットラグ
- ジェットラグは、いわゆる時差ぼけの事
    - 体内時計と現地時間のギャップで噛み合わない
    - 体内時計は視床下部の視交叉上核にある
        - 明暗に対応し、日中起きててくらいと眠い
        - すぐには調整できない。
- ジェットラグの症状
    - 夜間不眠と日中の眠気
    - 不快感
    - 身体運動のパフォーマンス低下
    - 認知機能低下
    - 消火器症状
        - その他、旅行による疲労も重なる。
        - 旅行の疲れは休めば治るが、ジェットラグはすぐには治らない。
- ジェットラグの頻度
    - 不明。多くの旅行者がなるといわれる。
- ジェットラグの寄与因子
    - タイムゾーンの数。タイムゾーンをたくさん越える(時差がある)となりやすい。
    - 方向。東方への旅行はきつい。西はOK。体内時計は通常24時間以上あるので、一日が延びる分には調節しやすいが、一日が短くなるのは調整しにくいため。ただし、朝方の人は体内時計が24時間以下で東側への旅行の方が楽らしい。
        - 夜光に当たると、体内時計は長くなり、朝光に当たると短くなる。睡眠中は目をつむって通常暗いので、体内時計の調整に寄与している。
        - メラトニンは逆。夜メラトニンを飲むと時計は短くなり、朝飲むと長くなる。
        - 西向きに旅行すると、毎日体内時間は平均92分分リセットする。東側だと57分。おおざっぱに言うと、1日1時間時差ぼけはなおっていくが、西側の方が治りは早い。
    - 睡眠不足。ビジネスクラスやファーストクラスなら症状は軽い、って当たり前。
    - 目的地でのヒント。現地での自然光への曝露は重要。
    - 個人差、、、、加齢により、時間のずれに対する寛容度は低下する。年をとると寛容性が低下するのは、これは一般的な現象ですね。
- 治療
    - 自然光への曝露
        - 東に旅行するときは朝に、西に旅行するときは夕刻に強い光に当たるよう意識するとよい。
        - ただし、時差が8時間以上ある場合は、逆に東向きは朝数時間室内で暗く、西では夕刻にそうしたほうがよい。
            - 外に出るならサングラスをしても良い。
            - 臨床試験は乏しい。
            - 時差が8-10時間以上ある場合は、西向きに旅行するのと同じように治療した方がよいという専門家もいる。
            - 分かりづらい、、、ので分かりやすい表が付録にある。メラトニン服用時期もこれで一目瞭然。よかった。
            - content.nejm.org—DC1 <http://content.nejm.org/cgi/content/full/362/5/440/DC1>
    - メラトニン
        - 夜間、10-12時間分泌されるホルモン。
        - 体内時計に調整されている。
        - ダークネス・シグナル
        - 夕刻に摂取すると体内時計は早く、朝飲むと体内時計は伸びる。光と逆。
        - 受容体は視交叉上核にある。体内時計と同じ。
        - 体内時計調整機能だけでなく、眠剤としての意味もある。1mg以上で特に
        - 11の二重盲検プラセボコントロール試験で、8つが臨床効果を示した。
        - 4つのスタディーによるメタ分析では、5−8mgの服用で、スコアリングによる治療効果を認めた。
        - メラトニンは東向きでは就眠時に服用。西向き、6時間の時差以内だと、内因性のメラトニンと重なってしまうので、0.5mgかそれ以下を深夜に飲んだ方がよい、、、らしい。
        - 0.5mgと5mgを比較して、差はないというスタディーもあるが、普通は5mgを飲む。5mgのほうが眠い、、、
        - 眠剤と併用すると日中の眠気や見当識障害が増える。
        - 旅行前から現地の睡眠前時間にあわせてメラトニン服用すると良いかは、わかっていない。
        - 副作用は少ない。FDA認可はない。
    - その両方
    - 短期の旅行では、現地でも旅行前の場所に合わせた行動をとる方法もある。岩田は学会に行くときよくこれをやり、昼寝して、夜中に起きている。
    - 短期型の眠剤も有用。ただし、副作用もあるので、旅行に行く前に飲んでみるという手もある。機内のDVTは増えるかもしれない?
    - 逆に、日中にカフェインなどの刺激物をとるという手もある。
    - armodafinil(ナルコレプシーの治療薬)も有用?臨床利権もある。頭痛、悪心、嘔吐が増える。
    - メラトニンの指摘投与量は不明だが、たぶん投与量より投与時間の方が大事。
    - 西向きの旅行時はいつメラトニンを服用するかは不明。
    - メラトニン受容体agonistも研究中
    - Argonneダイエットなるものも。豪華な食事とダイエット食を交互に?
        - こんな感じらしい。
        - www.netlib.org—jet-lag-diet <http://www.netlib.org/misc/jet-lag-diet>
    - 運動も?
    - エキスパートの推奨はこんなかんじ
        - I would recommend that, before departure for London from Los Angeles, he gradually advance his sleep schedule by 2 hours and seek exposure to bright light on awakening. After his arrival at his destination, I would recommend that he walk in the bright sunlight and drink a caffeinated bev- erage each morning. I would also recommend that he take melatonin, at a dose of 3 mg (the dose that is most commonly available) at bedtime, for 3 to 4 days to accelerate phase shifting. If melatonin alone is insufficient to facilitate sleep, the addition of a hypnotic agent may be justified. On his return, I would advise him to seek exposure to bright light in the evening and to take a low dose of me- latonin (0.5 mg) if he awakens before 5 a.m.

Omnioutlinerと質的研究

本当、OmniOutlinerって便利。これは使い出したらはまってしまう。なんでもメモっておいて、あとでKeynoteやtextに書き出せるのも素晴らしい。

で、最近これを使って分析ワークシートを作っています。最初に質的研究を勉強したときはワードファイルでしたが、コピペがしづらく、編集も困難でけっこうやりづらかったです。でも、Outlinerならスクリプトをどんどんコピーしてあちこちに分散。改行とかも考えなくて良いのでとても作業効率がよいです。

質的研究用のソフトもあるようですが、ウィンドウズ専用ばかりでしかも高額なので手が出ません。よいのかもしれんけど、機能をみるとちょっとぼったくり。研究費がおりることを見こんでものをバカ高くするのは実験器具などでも同じですが、馬鹿馬鹿しいので安価にすませたい。年度末にバカみたいにお金を使うのがどうしても、苦手。発想の仕方が全然違うなあ。

本日のJクラブ

Prophylaxis of Pneumocystis pneumonia in immunocompromised non-HIV-infected patients: systematic review and meta-analysis of randomized controlled trials
PMID 17803871

HIV感染のない患者に対するST予防投与のメタ分析 移植患者やALLではNNTが11。RAでは1099。小児だと副作用少ないので適応者多くなる。

Bacteremia associated with toothbrushing and dental extraction
PMID 18541739

歯磨きでも細菌血症は多く、アモキシシリンは抜歯時に細菌血症を減らす。さて、その先は?抜歯よりも歯磨きの方が実際の菌血症のリスクは200倍。

Eosinopenia is a reliable marker of sepsis on admission to medical intensive care units
PMID 18435836

安い好酸球でプロカルシトニンの代わりが出来ないか、という論文。少なくともCRPよりもeosinopeniaの方が感度特異度が高い(ROCカーブがとんがっている)。逆に言うと、ICUではCRPは好酸球より役に立たない。

Community-onset bacteremia due to extended-spectrum beta-lactamase-producing Escherichia coli: risk factors and prognosis
PMID 19995215

case-control-control studyってなに?という論文。

Treatment with monoclonal antibodies against Clostridium difficile toxins
PMID 20089970

再発の多い偽膜性腸炎をモノクロナル抗体で治療したらどうか。毒の病気は毒をターゲットに、、、



更迭署名すべし

サッカー日本代表の目標はワールドカップベスト4です。

もしこの目標が「本当」であるのなら、岡田監督はすぐに更迭すべきです。だれがどう考えても、あの監督でベスト4になれるという要素を思いつきません。過去の実績、世界における戦いぶり、最近の戦績などなど。どこに勝算があるというのでしょう。あるというのなら、示してほしい。

小沢一郎不起訴を受けて、幹事長を辞任すべきと言う新聞調査がでていました。サッカー代表監督もすぐにアンケートを採り、民意を示して代表監督リコールを行うべきです。なにしろ「日本代表」の監督なのですから。準備期間を含め、監督を変えるのなら「今」しかありません。

ネット上で署名運動とか、できないでしょうか。そしたら、僕は一票投じます。パートタイムでヒディングにやってもらったほうがよほどいい成績になるはず。サッカー協会もお金持っているのだから、お金を積んで三顧の礼でワールドカップ限定でお呼びすればよい。クラブの監督をやっているほかのひとでもよいと思います。いずれにしても、今のままでは絶対に、絶対に、絶対に勝ち目はない。

The long and,,,

新聞を読まなくなって久しいですが、何事にも例外があって、新聞にも読んでいて面白いところがあります。

それは日曜版の書評。ここだけは時間さえあれば全紙読みたいくらいです。朝ゆっくり起きて午前中のんびり新聞の書評を回し読むなんて日々。いつか来るんでしょうか。

出張先のホテルにたまたまおいてあった読売を読みます。竹内一郎が「若者がダメという大人がダメ」という書評に絡めたエッセイを読みます。

本当、そう思う。今の若者より大人の方が全然だめ。これは政界、医学界、教育界などみんなそう。今や立派な大人は希有な存在になりました。志があり、魂があり、責任感強く、謙虚で眼差しに光がある。そういう大人を見る事はまれになりました。だから、内田樹さんとかにたまにお会いするととても嬉しくなる。

たいていの大人は志を失い、魂はどっかに置き忘れ、ひたすら過去の貯金ばかり見せびらかして傲慢で、何か悪い事があると全部「私以外の誰かのせい」。そして眼(まなこ)は濁っています。おまけに品がない。

ぼくもそういう大人になってしまわないか、不安で仕方がありません。もうなってるって?

土浦で行われた指導医講習会に行ってきました。その「希有」な大人の会であったと思います。前野先生の指導医講習会はAbbey Roadだ。各セクションは独立している番組なのに、最初から最後まで底流する一貫した流れがあり、メッセージがあり、目的があり、起承転結があります。こんな指導医講習会は初めて見ました。

指導医講習会に参加する度に日本の大人の「ダメさ」を目の当たりにしてきた僕としては、しばしほっとした時間なのでした。これから家に帰るのは大変だけど。

帰りの新幹線では、購入したばかりの「邪悪なものの鎮め方」を読みます。「知的パフォーマンスの向上というのは、「容器の中に詰め込むコンテンツを増やすこと」ではないからである。ぜんぜん違う。」と書いてあります。

そのとおり。

僕が内田樹さんに強く共感を覚えるのは、僕に彼を紹介した人物の影響も大きいですが、その言葉がいちいち自身の価値に共鳴するからです。こういう共鳴は、職場ではほとんど得られないし、学術界でも全く得られないし、まあ医療の世界でもあんまり得られない。

本書からもう一つ興味深い引用。内田先生は能舞台に立つが、そのときの話。

先生は本番前はこちらの体温が下がるほどにてきびしいが、本番終了後は決して過去を振り返らず「はい、守備ようおできになりましたな」と水に流して、もう来年の話に入るのである。

これが、教育の極意であろうと思います。教育の極意とか、最近言いませんが、標準化とかアメリカンな話ばかりしていて、大事なものはほったらかしなのでした。

測れないもの

教育の評価はmeasurableでないといけない、とよく言われます。これはイデオロギーであり、事の真理ではありません。イデオロギーもイデオロギーであるが、しかも教育者サイドのイデオロギーです(まあ、アメリカンなイデオロギーです)。こちら(教育者)の都合であちら(ラーナー)の都合を規定しているのです。これも日本の教育界に普遍的な誤謬です。

本当に大事なものは計測不可能です。しかし、測れないから、ほっといてよいというわけではありません。実は、この辺が一番大事なのです。僕が研修医をけっして「評価しない」のもそのためです。文章化してしまうと全ておじゃんになってしまうのです。言葉にしてはいけないことは、言葉にしてはいけない。客観性?客観性より大事なものは、世の中にはたくさんある。

すべてのモデルはイデオロギーなのですが、日本人はモデルを真理と勘違いしがちです。特に舶来もののモデルはそのままドグマ化してしまう。思考停止に陥ってしまう。もともと小児期より「考える」トレーニングを学校教育で受けていない日本人に、これは危険だ。

日本では考えずに覚える、飲み込む、ことが優秀さの証と勘違いされがちです。医療者なんかこのような飲み込みの思考停止パターンが多い。医師もそうですし、ナースはさらにそう。こないだ、内田樹先生と前川幸子先生たちとの鼎談ではこの話が出ました。こんど「看護教育」にでるので、読んでください。

日本では、飲み込んだ量の多さと正確さが優秀さの証で、その最果ての地に、実は霞ヶ関があったりする。でも、大事なのはそのコンテンツの外にあるものなのでした。

だから、教育するときもよく「わかるように言語化しなさい」といわれますが、日本ではもうワンステップ必要です。「僕が教える前に、あんたがどう考えているか言語化してごらん」と促す事です。これができない。そしてこれができるようになると、実はたいていの事は教育者が教えなくても自分で気がつくようになる。1回ぐるっと回って「俺の背中を見て考えろ」というのが大事なのです。これはもちろん昔への回帰ではないです。似て非なるものなのです。簡単に答えを教えてはいけない。人から与えられた答えは表層的で、自分で会得した答えこそが深部に宿るのです。それまで、辛抱強く教育者はほったらかしておく必要があります。慎重に、注意深くほったらかす。

日本の学生や研修医は、どんどんあたまをつかわせなきゃいかん。これは欧米にはない背景がもたらした必然的な方法論です。日露戦争の時、秋山兄弟は陸軍、海軍の使い方を欧米では「非常識」なやりかたで運用したのでした。勝つためにはそれしかなかったからです。彼らは欧米の戦術に無知であった訳ではありません。十分にそれを知り尽くした上で、「勝つためには同じようにやってはダメだ」と察したのでした。秋山兄弟は現在の日本では希有になった「考える事のできる」日本人でした。

形式主義はだめなのです。形式がダメなのではありません。所作は重要で、それは芸というフィールドでみることができます。形式主義=形式ではないのでした。形式主義は思考停止だからダメなので、芸における「形」は考えつくした結果なのです。表現形は似ていても全然違うのでした。

GIOとSBO問題

これは、どこか別のところでも書いたのだけど、GIOとSBOはもう無理なので、止めた方がよいと思っています。日本以外では使ってないし。

Bloomのtaxonomyも一つのモデルに過ぎないのに、そういうものが提唱されてしまうと神の啓示か何かのように絶対化してしまうのが日本の学者の悪いところで、これは社会学でも心理学でも哲学でもよく見る光景です。他人にはreflective learnerになれと言っている当の本人が一番reflectionできていないという、一番ダメなパターンです。

分類というのは所詮恣意的なものに過ぎず、技術的なものに過ぎません。ある技術の枠組みでの分類は、その分類に親和性があり、慣れた人が上手にできる。ただそれだけの話です。ところが、これに長けた人が知らない人を貶め、知識格差を作る(いわゆるイヤらしいタイプの専門家になるワケですね)。自分で意図的に作った格差でもって長ったらしい講習会をコントロールする。そのくせ、「研修医に苦行を課してはいけない。我慢する研修は時代遅れだ」とか言う。指導医講習会が一番我慢を強いているくせに、よく言う。

何のために?がGIOたるものを設定する一番の動機でした。それは悪くない。でも、よく考えてみると、「何のために?」の問いはどんどん深化していきます。「患者のトリアージができる」でも、「なぜ」トリアージなの?という話になる。GIOはSBOに、SBOはGIOに容易に変化し、それはその当事者の問いの立て方によって変わります。だから、「これはGIOじゃなくてSBOじゃないの?」みたいなコメントには意味がないのです。

知識、技能、態度という使い古された分類も問題です。これも、さらっとそういうわけかたもありまっせ、程度に紹介する分にはありでしょうが、これが絶対的な断絶になると、「分類」とは何かという根源的な部分を全く理解しない形式知になってしまいます。

分類の本質は、こんな本を読むと分かります。

例えば、朝きちんと挨拶をする、というのは「態度」の問題と捉えられがちですが、なぜそのような態度に意味があるのか、と問うとそれは知識の問題になります。その挨拶が病院に病棟に何をもたらすのか?このような教え方の方がしっくりくる研修医もいます。要するに、その目標がどの領域に当てはまるかは、その研修医の認識の仕方次第でしょう。研修医によって異なる認識のあり方を一様に定式化するところに、すでに無理がある。無理を通せば道理が引っ込む。所詮、このへんの知的遊戯は専門家の自己満足に過ぎないのです。自分たちがそれに耽溺して遊ぶ分には問題ないですが、それを新規の指導医に押しつけてうんざりさせるなんてカウンタープロダクティブな所行は絶対に避けるべきなのです。

今、茨城県の指導医講習会に勉強しにきています。さすがに前野先生のご企画だけあって、上記の「形式と実質の混同」「目的と手段のひっくり返し」が極力排除されており、こんなにビジョンの明確な指導医講習会は初めて見ました。とても勉強になりました。カンボジア、千葉、東京、島根、富山、茨城と暑いところ寒いところ動き回って風邪引いちゃいましたが、、、、

今月末は神戸大で指導医講習会です。メンバー一新で再構築。全然洗練され得ていなくても良い。専門用語も皆無でよいから、参加者が「研修医教えるのも悪くないな。楽しそうだな」と前向きになっていただけることを目標にしたいです。そのために、コンテンツはどうあるべきか。

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