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2010年3月

コメントに、反論

通常、僕はいただいたコメントに反論しないことにしている。それは「おっしゃるとおりです。失礼しました」のときもあり、「まあ、見解は異なるけど、正解は一つとは限りませんものねえ。尊重いたします」のときもあり、「これは読まなかったふりをしてスルーしちゃえ」のときもある。

例外的に、以下のコメントには反論しておきたい。

 monster parents とか、monster patientsとか、他人に何かを要求する時、人間のエゴは際限なく肥大するもののようで、それはdoctorも例外ではないのでしょう。

 医師国家試験のスケジュールは、昔に比べれば、これでも随分と早くなっています。

 私の時代、3月に大学を卒業した後、4月1日に上京して、大臣から辞令を受け取り、その日のうちに地元に帰って、国家試験を受け、試験後に再び上 京して、霞が関で勤務した後、4月の終わりに合否発表と言うスケジュールでした。
 同期の中には、残念ながら不合格となって、即日、辞表を書いて郷里へ帰ったものもいました。

 さすがに、これではあんまりだろうということで、多少は改善されて、現在のように2月試験、3月末に発表となっています。

 現在の状況だけを見て、「遅すぎる」と担当者を非難するのは、患者が死んだら、何でもかんでも「藪医者、人殺し!」と医者を非難するぐらい無茶な 気がします。

引用終わり

ここからが僕の反論

 まず、「過去はもっとひどかったのだから、今の辛苦は我慢すべきだ」という論理構造に反論する。これを許容するのならば、

「戦後は今よりはるかに凶悪犯罪が多かったのだから、多少の殺人事件くらいでがたがた言うな」

「むかしは女はもっとひどい扱いされていたのだから、少々のセクハラくらいで文句言うな」

「昔の医者は月月火水木金金、食わず寝ないで働いていたんだ。月10回の当直くらいでごちゃごちゃ言うな」

「昔は公務員は接待、癒着は当たり前だったのだから、天下りくらい大目に見ろ」

という論理構造もまかり通る。通常、我々はこのようなステートメントを「暴論」と呼ぶ。「過去がより悪かった」、という事実は現在の理不尽を許容して良い根拠にはならない。このような後ろ向きな議論をしてはならない。

さて、コメントでは、僕の意見をモンスターペイシェントとか、モンスターペアレンツに例えている。モンスター○○、というのは自らの理不尽な要求を他者に強要するような人物のことであろう。

物事が理不尽かどうかは、たぶん、個人差がある。ある人にとってはにっこり笑顔で受け入れられる事象も、他者にとっては屈辱に歯がみし、とうていできない相談だったりする。

では、「資格の合否発表とその仕事始めがほぼ同時期に行われるのはおかしい」、という要求は理不尽であろうか。もちろん、この見解にも個人差があり、「それでもいいんじゃない?」という人もいるかもしれない。僕はそのような価値観を全く否定はしない。

だから、僕は厚労省担当者諸氏に条件を提示したのだ。もし、資格の合否発表と仕事始めが同じでもそんなの当然、というお考えであれば、国家試験の合否も4月1日に発表してはいかが?と申したのである。「もちろん、それくらいどってことありませんよ」と笑顔でおっしゃるのならそれでよし。「岩田、ふざけんな、そんなことできるわけないだろ」とお怒りになるのであれば、「では、自分が許容できないような要件は他人に強要すべきではないのでは?」とお答えするのみなのである。でも、僕の想像だが、前者の条件を心の底から許容する官僚は一人としていないはずだ。いたら、教えてください。

医師国家試験の合否発表日は遅すぎる

昨日、医師国家試験の合格発表がありました。合格された方、おめでとうございます。上手くいかなかった方、今は落ち込んでいても、また立ち上がってがんばれる日が来ることを気長にお待ちします。

さて、3月29日に合格発表です。病院によっては3月25日から仕事始めです。どうしてこんな変なルールなのでしょう。引っ越しをして、住民票を変えて、運転免許や家具の購入などあれやこれやの手続きをして(だって研修始まったらそんなことする暇ないですから)、挙げ句の果てに、「不合格」ではあまりにかわいそうです。このシステムを作っている厚労省の担当者はいやしくも教育に携わっている人たち(たとえ教育者ではないにしても)なはずです。このような心痛を学習者に与えることをよしとする教育者・教育担当者がいるとしたら、一度話を聞いてみたい。それでよいというのなら、国家公務員試験の合否発表も4月1日にやればよいのです。4月1日、合格者には辞令交付し、不合格者には不合格通知を渡して「これから就職活動がんばってください」といえる厚顔さをもつ人なら、このシステムを継続することを理解します。

いろいろな行事や業務の合間を縫ってのことで大変とは思いますが、やはりある程度の準備期間を与えてあげないと不合格者にはかわいそうです。苦痛を被った人間により大きな配慮を示すのが我々医療人の本質というものではないでしょうか。「作る側の論理」に立ってはいけないと思います。

どこに話をもっていったらよいのか分かりませんが、このブログ読者には医学教育のプロたちもたくさんいるはずです。学会のメンバーもいることでしょう。もしかしたら、医師国家試験のシステム作りに参与されている人もいるかもしれません。是非、ご一考いただきたいものだと思います。

臨床研究のABC(名郷先生)

ある雑誌に頼まれて、書評を書きました。これは良い本です。

明日から臨床大好きなあなたも、臨床研究したくなる。

神戸大学 岩田健太郎

 本稿は名郷直樹先生の「臨床研究のABC」の書評である。本書は素晴らしい。どのくらい素晴らしいかというと、僕は読了後、無性に臨床研究をやりたい情熱に駆り立てられて、今メタ分析をやっている。そのくらい素晴らしい。
 メタ分析のためにある薬に関する論文を検索する。医中誌WEBで検索する。引っかかってくる論文の大多数が動物実験と症例報告である。症例報告のほとんどが「○○が××に著効した一例」である。成功体験、武勇伝である。しかし、成功体験をいくら積み上げてもメタ分析は出来ない。一例報告なら「失敗例」のほうが何百倍も価値が高い。勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなしなのだが、我々の領域は不思議な武勇伝に満ちている。必要なのは、明日からのプラクティスに役立つ「臨床研究」である。武勇伝ではない。本書の言う「耐震偽装論文」(本書7ページ)でもない。
 名郷先生はEBM(evidence based medicine)の大家だが、EBMには5つのステップがある。最初のステップは疑問を持つこと(問題の定式化)。疑問を持つこととは、分からないことに自覚的であることである。しかし、我々はしばしば「分かったつもり」になってしまい、日々の診療を流してしまう。
 丁寧に内省すると、臨床現場は「分からないこと」に満ちている。「信じていた常識」が意外に「根拠のない神話」だったりする。もちろん、分かっていないからといって診療止めるわけにはいかない。幕が開いたらショーは続けなければならないのだ。分かっていないことに自覚的であり、そしてだましだまし診療をする。「俺は自分を騙し、患者もごまかして、いまこのよく分からない薬を処方している」という「騙している自覚」が大事である。だましだましの自分に嫌気がさしたら、そこが研究の萌芽である。これが順番である。臨床家にとって研究は結果であって目的ではない。
 だから、通俗的な意味での「僕は臨床が好きだから研究はやらないよ」ではないのである。臨床が好きで好きでしょうがないから、その結果研究するしかなくなるのである。
 あと10年経ったら、医中誌を検索しても動物実験と武勇伝ばかり、、、でない日本になっているよう願っている。本書が、その一助となることは間違いない。

春の宣伝(新刊)

 ずっとねちねち作っていた本がこの時期一気に出版される。何のことはない、学会に間に合わせるためにみんなぎりぎりこの時期なのです。
 感染症関係の書籍はとても増えた。ので、類似の書物や特集も多く、ある意味生産性が問題になっている、と思う。ので、ターゲットオーディエンスと立ち位置を考える必要がある。この本は、誰のために、何のために役に立っているのか?ちまたの類書に加えるところのないme too bookではないのか?という検証が必要になる。 そう、教科書の考え方は、抗菌薬の考え方と同じなのである。

 そのため、出版社からもってこられた企画でボツにしたことはけっこうある。「感染症の本を作りたいんですけど」くらいの相談だと、「青木先生の本以上のものを作るのは無理なので、やめときましょう」となるのだ。

 今年、マンガを作ったが、あれは「感染症なんて興味がない、勉強もしたくない」人を、つまり青木先生の本は生涯、絶対に開かなそうな人をターゲットにした本。でも、そういう人でも抗菌薬は使うのです。ニーズは、そこにある。「あれでは足りない」という批判も受けたが、それは当たり前。ゼロよりは1のほう がまし、というコンセプトだから、そこは織り込み済みなのだ。あれ以上増やすと、「分厚い」と開かれなくなってしまい、1がゼロになってしまう。

まずは救急医学特集

 傍から見ていると、救急医療の現場には格差社会がやってきているように思っていた。感染症に限定すると優秀な人はどんどん先へ進んでしまい、遅れた人は いつまでもウン十年前のまま。今回は、その遅れてしまった人をターゲットに書いています。したがって、ベーシックなまとめと陥りがちなピットフォールを集めたもの。僕はエディティングと「通常、抗菌薬を使わず治療する感染症」という項をまとめました。当たり前のことしか書いていないが、けっこう「目から鱗」とか言われてしまう。

つぎは、ガイドラインの総まとめ。

感染症診療ガイドライン 総まとめ  総合医学社

 最近、「ガイドラインに書いてあるので」と言われて「あれ?」なプラクティスをよく見る。ガイドラインと言っても玉石混合。たとえば、感染症学会・化療 学会の抗菌薬のガイドラインはとても質が低い。アメリカの院内肺炎ガイドラインはそのまま日本では使いにくい。感染症にまつわるガイドラインを総集めし、 それを同じ視点で切って再評価した、ガイドラインの評価本。

感染症999の謎 

 これはけっこうがんばりました。アメリカのシークレットシリーズの感染症を訳したかったのだが、諸般の大人の事情でそれができず。ならば、自分たちで作っちゃえ、というのでこの本。
 しかし、各執筆者がものすごい熱意で原稿書いてくれたので、本場のシークレットよりずっと良いものができてしまいました。これは自信を持って言える。各執筆者の皆さん、どうもありがとうございます。是非読んでね。これ、正直言って、英訳してアメリカで売りたいぞ。
 英語版、ハングル版、中国語版、フランス語版などを出してもよい、という人はご連絡ください。

 今年度の仕事はだいたい終わり。内田樹さんにはぜんぜんかなわないが、それなりにアウトプットも出せました。来年度は今年タネをまいた研究の刈り取りもやらねば。臨床試験、メタ分析、質的研究を同時進行で進めている。集中力がないので、同時進行でないと仕事できないのだ。あることに飽きたら、べつなことをやる。

 まあ、所詮、なんちゃって研究者なので、空いた時間に、ついでにやる。他人に勝たなきゃ、科研費とらなきゃ、結果を出さなきゃ、みたいなのがないので、とても気楽。今あるリソースで、やりたくてできそうなことをやるだけ。僕にとっての研究はお勉強の延長線上にしかない。

さらに、one more thing,,,とリンゴ的コメントを残して、この項は終わり。ヒントはここに。

新型インフルエンザをまだ、考える

日本では新型インフルエンザに罹患した人が(罹患、の定義にもよるが)だいたい、2000万人くらいである。これを書いている時点で、死亡者が200人くらい。(いわゆる)致死率はしたがって、10万人にひとり、0.001%となる。それにしても厚労省のHPはこの1年で本当に見やすくなった。すごい進歩ですね(うちのHPが全然進化しないのとえらい違いだ、、、)。

アメリカでは罹患者が(だいたい)6000万人くらい。死者が12000くらい、である。致死率は0.02%、日本の20倍となる。

これが、なぜ起きたのかは、よく考えてみる必要がある。

少なくとも、致死率そのものは検疫や学校閉鎖で低くなることはないと思う。率ですからねえ。理屈は付けることができるけど、少なくとも証明は無理だろう。いずれにしても寄与するところは小さいに違いない。

では、タミフルか?タミフルが、死亡率減少の全てである、という理屈を僕は受け入れることに困難を感じる(証明は、今はできないけど)。感染症において一つの要素が要素の全て、はまれだからである。アメリカと日本では交絡因子が多すぎて、大きすぎて、そのような結論を導くのは困難だからである。不明確な要素が多すぎる。不明確なものは「分からない」と言うのが誠実な態度だ。分かったふりはしてはいけない。

仮にタミフルが以上の結果をもたらしたとすると、ARRは0.02-0.001=0.019、NNTは5000人以上となる。そういうものだろうか???

アメリカでは重症例でもタミフルを飲んでいないものもいた。死亡率の高いところにインターベンションをかければ、死亡率は低くなる。ここではないか?外来で元気にしている患者全てに、(感染症学会が言うように)タミフルを処方する。死なない人に薬を出して、果たして死亡率が下がるものだろうか?

ちなみに、ちょっと練習問題としてRで遊んでみました。
x <- matrix(c(19999800, 200, 59988000, 12000), nc=2)
> chisq.test(x)
    Pearson's Chi-squared test with Yates' continuity correction

data:  x
X-squared = 3550.115, df = 1, p-value < 2.2e-16

 アメリカでの死亡率は、確かに日本のそれよりずっと高い。まあ、厳密には上限下限などいろいろな条件で入力するべきだが、たぶんボトムラインはかわらんだろう。
 これは発症者のうちの死亡者のデータである。疾患の予後に関するデータである。ここが大事である。
 かつて、アメリカと日本の健康指標の違いは医療の質の差というより生活環境や社会の仕組みの違いじゃないか、という意見を聞いたことがある。それは、一理ある。まあ、医療制度も社会の仕組みなので線引きは難しいが、いずれにしてもアメリカの医療は新型インフルエンザ診療において日本ほどのアウトカムを出していないことが、明々白々である。ここまでは、よいだろう。我々がアメリカ的価値観でもし医療を切るのであれば、大事なのはアウトカムだ。そういう観点から行くと、かつてどこかであったようにアメリカ医療の模倣が理想、ということはインフル診療という観点からは絶対にあり得ない。
 そんなことは僕はメールマガジンで10年も前から言っていたのだが(それをまとめたのが「悪魔の味方」)、いまだに「岩田はアメリカシンパで、日本をアメリカのようにしようとしている」という陰謀説が後を絶たないので非常に迷惑している。そういうことを言う人に限って、僕の本を読んだこともなければ会ったこともない奴らだ。経歴だけ見て人を判断しようとするから、そうなる。履歴書でその人物が分かることはほとんど(絶対とは言わんが)ない。加えて、高齢者はしばしば頑迷で、一度信じ込むとどんなに口を酸っぱくして否定しても全然聞いちゃくれない。もともと人の話を聴くのが嫌いな人も多い。
 ケナンの「アメリカ外交50年」や、ハルバースタムの「ベスト&ブライテスト」を読むと、アメリカが「思い込み」と「ヒステリー」で戦争をしかけてしまうことが多いのが分かる。ヒステリーと思い込みでスペインと戦争をし、ベトナムで戦争をして、(最近は)イラクを攻め込んだ。思い込みが強く、ヒステリーに陥りがちで、雰囲気でものを決めて、人の話を聴かない。日本とアメリカは、意外に似たもの同志なのですね、たぶん。

まだ息は白い

昨夜は研修医の修了式。みなさん、ご苦労様でした。

昨年よりはずっとましになった。昨年は盛況の隣の食堂でサンドイッチとソフトドリンク、修了書は(領収書みたいな)紙切れ一枚。参加者は白衣を着ていて、そそくさと修了書をもらって仕事にもどる、、、みたいな感じ。こんなに研修医を大事にしない病院でいいのか?と憤慨したものだ。儀式の儀式性に心が現れるのだ。こういうところに、教育病院の質というのが垣間見られるのだ。

今年はポートピアホテルである。送迎バス付きである。日本一(たぶん)美しい神戸の夜景付である。お酒もでれば、シェフがステーキを切り分けてくれる(神戸ビーフではなかったと思うけど)。修了書は額に入れて飾れる豪華なもので、院長が自ら渡してくれる。ベストティーチャー賞とベストレジデント賞も作りました。けっこういいデザインのトロフィーで、センターの事務方は意外に(失礼)素敵な審美眼があるのだと知った。まだまだ直したいところはあるけれど、まあ今日のところはこれでよしとしよう。

ベストレジデントとは、あくまでも象徴作りである。決してコンペティションではない。ここを間違えてはいけない。

ベストレジデントに選ばれなくても優秀な研修医はたくさんいた。「あいつが選ばれて、なんで俺が選ばれないの?」と思った人もいたかもしれない。それは正当な見解かもしれない。単なる勘違いかもしれない。いずれにしても、そういうのはどうでもよいのです。ベストレジデントに選ばれなくても優秀な人はいる。でも、ベストレジデントに選ばれる人は間違いなく優秀なのです。「俺が選ばれないのはどうして?」というのはあっても、「あいつが選ばれるのはけしからん」ということはない。コンペティションではない、というのはそういうこと。

そして、これで「優秀な研修医とはどんな感じか」を具体的にイメージできる。優秀な研修医の優秀さは、テストの点数など「測定できるもの」に還元できない。measurableでないとだめ、というのは研究者だけ。それは、立ち居振る舞いに現れる。測定できない。言語化すら難しい。でも、見れば分かる。これで神戸大学病院のレジデントも、O先生のように振る舞うことが、T先生のように振る舞うことが、そしてS先生(Sでよかったんだっけ)のように振る舞うことが優秀さの表現形なのだと納得できる。優れたものとはそういうもの。いい映画や、すてきな音楽や、美しい女(あるいは男)と同じ。いいワインも同じ。だから、僕はパーカーポイントとか、ワインに点を付けてしまうことには違和感を覚えてしまう(それはtoo Americanなのだ)。どきどきする女の子に、点数を付けるくらい無粋な行為はないだろう。

そうそう、僕からみんなにはアドバイスとかはありません。年長者のアドバイスなんて聞いちゃダメなんですよ。役に立たないから。

年長者が「おれはこうやって成功した」といっても、そのエピゴーネンではどのみち未来の価値は先取りできないのだ。尊敬する恩師を持つことは、いい。でも恩師のコピーでは恩師の教えが伝わったことにはならない。本当に優れた師なら、「俺のまねはするな、俺の教えを忠実に守るな」と言うはずです。師を見るな、師の見ているものを見よ、とはそういうことです。ミケルスからクライフが生まれ、クライフからペップが生まれたように。ある段階までは師のしゃべり方から好きな音楽、読んでる本までコピーするのがよい。でも、いつかはその段階を乗り越えなければならない。師の教えは絶対である。反論しても良いが、従わねばならない。しかし、師のアドバイスに耳を傾けてはいけない。忠実でなくてはいけないが、忠実ではダメである。この矛盾を乗り越えることこそ、大人になるということだ。

それにしても、どうして年をとるとみんな説教が好きになるんだろう。ま、人のこと言えないけど、僕も説教系だし。祝いの場で説教をたれないと気が済まない人は多い。しかも、「人間関係が大事です」みたいなどうでもよいことをいう。そんなことは誰だって知っている。「世界平和が大事」「患者さんの気持ちを考えて」みたいな反論不可能なステートメントは退屈だ。スピーチごときで患者の気持ちが分かるくらいなら、こんな楽な話はない。

どうせいうなら、「人間関係はいかにしてよくなるのか」「人間関係が破綻する最大のポイントはどこか」「人間関係が破綻してでもやるべきことがあるとすれば、何か」、あるいは「人間関係が悪くなるとはどういうことか」みたいなカッティングエッジな説教をするべきだ。スピーチの価値は、誰も考えたことのないようなことをしゃべることにある。

スピーチの上手い人の祝辞はたいてい相手のことをしゃべり、自分の心をしゃべる。うれしい、期待してる、楽しみにしてる、、、というような。必要なのはそれだけなのだ。スピーチが下手な人はじぶんのこころではなく、自分の「こと」をしゃべる。自分のことばかりしゃべる。しかも、長々としゃべる。そのほとんどは昔話だ。そして昔の世界観を援用して、未来の価値構造を説く。それが無理な相談なことは自明なのに、そういう説教をしないと気が済まない。

今日はひさびさに週末にオフィスで仕事。いや、普段も週末仕事してますがオフィスに行くのは久しぶり。図書館に行かねばならない調べ物があることと、昼から兵庫区でインフルエンザの話をするため。週末は会議もなければ電話も(あまり)かかってこないので、快適に仕事できそう。いつものように4時50分に起床して、いつもと違って洗濯をして、洗い物をして、ハンカチにアイロンをかける。その間、テレビを付けるとバルサ・エス・バルサをやっている。神がかっているメッシを見る。いや、もう神様になっちゃったかも。いつもより1時間遅れで出勤する。外は桜が美しい。早朝の繁華街は朝まで飲んでた若者が花束もって記念写真を撮っている。隣でお店の人が掃除してる。派手派手なキャバ嬢(たぶん)が疲れた顔で帰宅しようとしている。強者どもが夢の跡、といった風情の早朝の繁華街は嫌いではない。もう春であるが、まだ息は白い。もう要らないと思っていた手袋が今朝は必要だった。

贈る言葉

昨日は卒業生の謝恩会、うちの短期研修生の送別会とはしご。今日は初期研修医の研修修了式。

卒業生は5年生の臨床実習から、初期研修医も2年間面倒をみた。本当に嬉しい。実習厳しくてごめんなさい。プレゼンやりなおし、とか言い放たれたのは、あなただけではないのよ。数々の暴言、非礼はこの場を借りてお詫びします。

今後の活躍を期待します。成長を心から祈ります。活躍してくれると、嬉しいし誇りに思います。

もし、活躍できないとき、停滞したとき、苦痛なとき、動けないときは、神戸大学はいつでも母校として迎え入れます。相談してくださいね。母校は母なる学校という意味だから、どんなに迷っていても、困っていても、絶対的にあなたの味方です。それが送りだすものの使命だと思います。

まあ、だいたい言いたいことは内田樹さんのパクリです。本家をぜひ読んでください。

http://blog.tatsuru.com/2010/03/20_0748.php

教育環境日本一は音羽病院

徳田先生たちの論文です。教育環境で切った日本の教育病院ですが、スコアではナンバーワンは音羽病院でした。大学病院は予想通り惨敗でした。

http://www.ijme.net/archive/1/4ba14034.pdf

以下、引用です。耳痛いっす。

Residents at non-university hospitals may have a greater opportunity to see patients with various health problems, since there are many more patients with common diseases and acute illnesses at non-university hospitals.4 This characteristic of non-university hospitals is better consistent with the learning goals set by the Ministry of Health, Labor and Welfare of Japan for being able to care for patients with primary care levels and those who need urgent care. The increased clinical experience with a higher degree of independence is likely to lead to increased satisfaction among residents at non-university hospitals. In addition, despite the smaller number of teaching staff at non-university hospitals than at university hospitals, they may have greater enthusiasm for teaching residents, since some teaching staff at non-university hospitals are likely to have greater clinical competency and teaching skills than those at university hospitals.15,16 A higher quality of educational programs offered by skilled clinical teachers at non-university hospi- tals may be a cause of the increased satisfaction among residents at these hospitals.
The highest mean total score for the PHEEM (149) was achieved by Otowa Hospital, Kyoto. Similarly to several other popular non-university teaching hospitals, such as Okinawa Chubu Hospital, St. Luke’s International Hospital and Teine Keijinkai Hospital, this hospital is well known for having introduced a US-style teaching program through collaboration with invited US teaching faculty and with the Department of Medicine (General Internal Medicine) established as a major teaching department. These trends are seldom observed at university hospitals.15,17 In some university hospitals, Departments of General Medicine or Family Medicine have been established, but the major role of these departments is currently considered to be teaching of medical students, not residents because of the inadequate support to these departments from other subspecialty departments in university hospitals.

上を見ろ、下を見るな

何かを進めることが出来る人は、怒っている人です。現状に対する不満がなければ、進歩もない。もちろん、不平を言っているだけではダメで、他人に愚痴っているだけでもダメで、自分に出来ることは全部やらねばならない。そのうえで、不平。

昨日、訪問した病院は血培2セット率が93%。当院は50%ちょっと越えたところ。ここで喜んでいてはダメ。2007年の血培ガイドラインには、1セットの血液培養は「不適切」と書いてある。片肺のレントゲン写真のようなもの。胸部写真で片肺しかうつってなかったら、ふつう怒るでしょ。

半分近く不適切なのを、「採りにくい人がいるから」「小児を除けばちょっとあがるかも」「他の大学病院はもっとだめ」なんて言っていてはいけない。半分近く不適切なのに慣れてはいけない。

常識と非常識は区別しなければならない。できない言い訳ではなく、出来るための条件を言わねばならない。大学病院は良い病院になれないとか、なれなくてもよいとか、なれないのは仕方がないとか、微塵にも思ってはいけない。平均点で満足してはいけない。となりの病院と比較するなんてみみっちいことを言ってもいけない。医療機能評価程度の査定に満足してはいけない。彼らは何も、見ていない。大事なものは、そこではない。

今の常識を将来の常識と勘違いしてはいけない。今の方法論が未来永劫の方法論と決めつけてもいけない。上を見ろ、下を見るな。過去を見るな、未来を見据えよ。プライドと自己満足を混同するな。

というビジョンをもって、毎日出来ることをやる。できるところからやる。慌てなくても良い。三歩進んで二歩下がるでも良い。妥協も良い。打算も良い。回り道も結構。でも、現状維持の言い訳にしてはいけない。高い理想を持って泥の中を這い回るのだ。ただ目をつぶって這い回ってはいけないのだ。

ラカンはわからん、か。

ラカンの精神分析 新宮一成

むずかしいラカンだが、ようやくすこし切片に触れてきた感じ。いくつか印象深い言葉

すなわち、人格とパラノイアは同じものだというのである。

対象aの代表格は、乳房、糞便、声、まなざしの四つ組である。

a=(ルート5-1)/2
で、この値は黄金数(黄金分割比)である。
私が他者をどう見ているかということが、私が全体の中で何であるかということに等しくなる。

神様が僕を見るように、僕が彼女を見てあげることができるとき、僕は彼女を愛しているのだ。  愛の神様に超越的視点を担ってもらって、僕の気持ちを解く方程式、、、、アガペーとエロスの幸いなる一致。

レヴィ=ストロースはラカンのセミネールに、、、、、彼はラカンの話が「正直言って全然分からなかった」そうである。

自分を分析家だと思っている分析家は、自分を分析家だと思っている精神病者と同じだけ、気が狂っている。

愛とは、持っていないものを与えることである。

堕落して弛緩して、、、

3連休は、たいへんな状況から始まりましたが、五感を取り戻すべく、ひたすら弛緩し、堕落して過ごしました。

本日は西宮で谷川俊太郎、谷川賢作らによる歌と言葉のすてきなイベントを堪能しました。小室親子のセッションも最高でした。言葉と音に触れる意味を再度確認しました。

料理を作り、美味しいワインを堪能し、春近き、の景色を感じ取りながら連休はおしまいです。明日から、仕事モードでばりばりやろうと。プロ野球ですら常識になっていますが、いい仕事をしようと思ったら上手にオフの時間を過ごさねば。このへんの伸び縮みが、医学界ではまだ流布していません。

すっごい疲れている、、、

この数週間は非常に消耗する日々であった。疲れ切った。

まあ、もっというと、この数ヶ月は非常に消耗する日々であった、ともいえる。

まあ、さらにいうと、この1年間は本当に消耗する日々であった。

それをいうならこの数年間は、、、もうしつこいから止めよう。

自分が大学教授であることの意味や意義をとても考えさせられる日々であった。これが僕をとても疲労させた。そんな中で急患が出たり、しくじりがあったり、学会があったり、発表があったり、今月出る本のトラブルがあったりと、まあ出るわ出るわ。

こんなときは(そんなときだからこそ)アクシデントが多い。

弱り目に祟り目で、こういうときに限ってコンピューターが壊れる。それも、続いた。呪われているのかと思ったくらいに。

macbook airのヒンジが壊れ、海外出張直前にセカンドマシンを購入せざるを得なかった。そのセカンドマシンにウイルスが感染し、HDが壊れて僕のメールのなりすましが大量に発生した(岩田の気がふれたのではと思った人もいたそうです。ご迷惑をおかけしました)。これの修復にかなりの時間を要した。要するに昨日の1日はこのことにけっこうかかり切りであった。さらにもう一個のコンピューターのHDも壊れていることが判明し、こちらはOSインストールやり直したのだけれど、そのためにやるバックアップのtime capsuleの調子が悪かったのでそれを使えるようにし、バックアップをとってから以降アシスタントを使おうと思ったら、豹を雪豹にしていたのを忘れてしまっていたのでバックアップできず。雪豹は諸般の事情で手に入らず、ソフマップで購入。インストールしてバックアップ、やれやれと思ったら、何時間経っても終わらない。あれれ?そうだそうだ、インストールした雪豹をアップデートしなかった。アップデートして、もう一度やり直し。ようやく復旧しつつある。

macbook airは初代のもので、もともとヒンジが弱く、無料で直してくれることを心斎橋のアップルストアで教えてもらった。アップルはアメリカの99%の会社がそうであるように電話対応が不親切か高額なので、直接ジーニアスバーに行った方が100倍親切な対応を得られる。特に日本のアップルストアは接遇教育がしっかりしていて、眉にピアスをした茶髪のお兄ちゃんがTシャツ姿で完璧な敬語を駆使して細かくサポートしてくれる。捨てる神あれば拾う神あり、だ。

とにかくあまりにトラブルシューティングばかりやっていて、ちょっとやそっとのことではうろたえなくなってしまった。強靱な精神を涵養するのに若くして大学教授になるのはもってこいの舞台である。人間のほとんど全ての邪悪で醜いものと毎日取っ組み合うことができる。相撲の稽古と同じで、こういうのと何番も胸を合わせていくと、強くなれる。

そんなこんなでばたばたしていたが、その間に「公衆衛生」に出す原稿を一つ書き上げる。新型インフルエンザ対策の他国との比較。他国との比較、という発想そのものがあまり好きではないので気が乗らなかったのだが、ちょうど厚労省の検証会議が今月から始まるので、それに合わせて総復習した。なるほど、振り返るといろいろと面白いことが判明した。原稿を書き上げて、専門家の皆様に草稿を開陳してご意見を伺うことにする。

その間、移動やら待ち時間があったので、Robert P ParkerのSplit Imageと新宮一成の「ラカンの精神分析」と長谷川宏の「新しいヘーゲル」を読む。ただし、ラカンはまだ読了できず。ParkerのJesse Stoneシリーズは相変わらずリリカルな良い文章だが、ややマンネリ化(僕の中で)。しかし、その文体は本当に美しい。「ヘーゲル」はヘーゲル以前の古代ギリシャ、ルター、カトリック、プロテスタント、、、そしてデカルト、ベーコンの流れからどのようにヘーゲルに至ったのか。そして、ヘーゲル以降、キルケゴール、ニーチェ、マルクス、ハイデガーらにどのように移されていったのか、かなり分かりやすく俯瞰できた。素人にはとてもよい入門書だった。

検証会議での議論の軸を明確にしておくためにも、今「ヘーゲル」に触れておくことはとても有用だった。これでぶれずに突っ込みを入れられそうだ。ゴーマンかまして公言してしまうが、僕は口げんかで負けることはほとんどない(ごく一部の例外はあって、絶対的に勝てない相手もいる)。勝っちゃうとルサンチマンが生じてうっとうしいときだけ不戦敗するだけだ。そのとおり、だから余計に腹が立ち、なのである。大事な国の会議である。自己保身を一切考えずに、国のあり方のために真摯に誠実に喧嘩する覚悟を決めるだけである。だから、相手にもそれなりの覚悟を決めて欲しい。保身や「立場」や省益なんてくだらないものを考えずに、である。

絶対わかる抗菌薬はじめの一歩—一目でわかる重要ポイントと演習問題で使い方の基本をマスター (単行本)

矢野晴美先生の新著です。Sキューブリックも真っ青な長いタイトルの本ですが、「絶対」というところに矢野先生の矜恃を感じます。内容もよくまとまっていて、特にバンコマイシンの使い方の付録は矢野先生らしいなあ、と思いました。ご一読あれ。

災いこそ

昨日、患者さんとその家族に謝罪する。言い訳の効かない、完全に当方の手落ちであった。ひたすらに謝り、反省し、改善を約束し、改善を実行し、この苦い教訓をせめて明日への糧にして、成長のチャンスに転じるよりほかない。

さて、気分をあらためて

今朝は少し早起きした。テレビを付けるとバルサ対シュツットガルトの試合をやっている。洗濯したり、アイロンかけながら見る。今はハワイから大リーガーが来ているので朝のカンファはお休み。すこしゆっくり出勤できる。レーマンっていまドイツなの。と思ったら引退なのか、、、、

ツボにはまったバルサは本当に強い。このチームはこうありたい、という選手の、監督の、組織のメッセージが強く伝わってくる。勝つために、良いサッカーをするためには何をしたらよいか、みなが「自分のこと」として一所懸命に考えている。

オシムは言う。「日本人はプレーのためにプレーしている」と。つなぐためにつなぐ。ポゼッションのためのポゼッション、走るための走り。「何のために」という問いに誰も答えられない。何も伝わってこない。結果が出ない。同じ失敗を繰り返す。

日本のダメな組織に普遍的な現象。会議のための会議。議論のための議論。書類のための書類。反論のための反論。嫌がらせのための嫌がらせ。検査のための検査、投薬のための投薬、研究のための研究。権力のための権力。改革のための改革。改革したふり、のための改革したふり。皆、一所懸命にやっているのだけれど、一所懸命にやる、という意味をはき違えている。
「ぼく、ちゃんとやってますよ。ちゃんとまじめに毎日CRP測っています」
みたいなまじめなんだけどダメ研修医と、論理構造が同じ。ダメな組織には普遍的。

ヴィジョンとは、文字通り自分にも他人にも見えるようなものでなければならない。ビハインド・ザ・ドア的な仕事は大事なこともあるし、謀略も全く拒否はしない。ヴィジョン、目的達成のための必要な手段としての謀略ならば。それも「謀略のための謀略」「根回しのための根回し」「腹芸のための腹芸」になってはいけないのだ。

ペップは「良いサッカーとは」「強いチームとは」ということを現役時代から何十年も必死で考えてきたに違いない。2年くらいでローテートするような組織ではヴィジョンが涵養されるはずもない。5年後、10年後には「自分は関係ありません」ではだめなのだ。汚職を防ぐ効果はあるだろうが、それも「汚職防止のための汚職防止」「批判回避のための批判回避」であり、何のために?が欠けている。

しくじりがあったときこそが改革のチャンスだ。理想の病院はまだまだ遠い。やるべきことはまだたくさんある。今のままでよい、という腐った目をしている奴らが、そういう態度で満足している輩が、現状維持の重力に魂を引きずられている連中が、多すぎる。

こんな予防接種部会ではだめだ、、、、

http://lohasmedical.jp/news/2010/03/15220938.php?page=1

専門家の部会なのだから、最初にまずビジョンとゴールを示し、それに向かってどう進んでいくのか道筋を作っていかねばならない。ゴールも見いだせないのにちまちまと過去の「できなかった言い訳」と未来の「できない理由」を並べ立てても仕方がない。議論の方法が根本的に間違っている。

日本脳炎は、「現在の観点からは反省すべきところがある」と福嶋結核感染症課長はおっしゃるが、とんでもない。当時からワクチンギャップの問題は指摘されていたのです。当時の批判も馬耳東風で、自分たちの耳に心地よい専門家だけ集めてしゃんしゃんにしておいて、甘ったれるのもいい加減にしてほしいと思います。こんな見識であれば、全部「当時としては仕方なかった」で片付けられてしまいます。

このまま新型インフル問題が風化し、またいつか来た道に逆戻りするんじゃないかと心配です。「不退転の決意」ってそう言う意味でしたっけ。

FPと現代霊性論と他者と集中治療医学会

昨日はFP試験の発表。学科試験、合格してました。数年前に実技試験合格、学科試験不合格(この季節に不合格なんて言葉を使いやがって、、、なんて「失敗を一切許容しない」無粋なことは言わないでくださいね、、、)で、そのままほったらかしていて、実技試験の時効(?)寸前になっていました。今回はシケベンに徹したので、あまりまっとうなお勉強をしたとは言えずそこは恥ずかしいのですが、まあ正直ほっとしました。お金の勉強したくて「手段」としてFPの勉強を始めたのに、試験が目的化していました。典型的な目的と手段の取り違えで、これもちょっとお恥ずかしい。

FPの勉強をしていて感じたのは、お金の世界は非常に広大で深淵だということ。もちろん、ファイナンシャルプラナーになったからといってお金持ちになる方法がわかるわけではない。でも、僕にまつわる年金だとか医療保険だとか税金とか、高額医療費制度とか為替だとか、そういった概念についてある程度の整理をすることができました。やっと入り口を垣間見たって感じです。医学部卒業した時期ってのはこのくらいの気分かなあ。

僕は自分の守備範囲以外の勉強をするのが大好きです。だから、FPの勉強もけっこうつらくも楽しかった。こないだ、ある基礎医学系の講演を聴く機会があったのですがとても面白かったです。もともと僕は基礎医学者になりたかったのですが、なりそこねてずるずる今でも臨床やっているのでした。最近の知見は失われてしまったけれど、基礎医学に対する親和性はとても強い。暇があれば研究したい細菌や真菌はあるけれど、臨床・教育が忙しすぎてとてもそっちには手が出せない。基礎医学も臨床医学も、片手間にマスターできるほど甘いものではない。

ときどき、臨床家の中には基礎医学や基礎医学者を低く見る人がいるけれど(またその逆もあるけれど)、それはもったいない話。自分の知らない世界に没頭している人を見ていると「へえええ」「ほおおお」と感心することは多いのです。また、他者の領域を垣間見ることで、自分のフィールドを振り返って、反省する(reflection)材料にもできます。新しいアイディアも浮かんできます。臨床家の要件の一つにしなやかさ、柔軟性、感性の豊かさがあると思いますが、自分にないものや自分の外にあるものを許容しない狭量さはむしろ臨床家の要件からずれているんじゃないかなあ。

よい料理人は食材を大事にします。もっと良い料理人は食材を提供した人たちに尊敬と感謝の気持ちを忘れません。この美味しい野菜を作った農家の方に、この美味しい魚を捕ってきた漁師の方に、この美味しいお肉を育てた畜産業の方に、敬意をしめすのが当然です。臨床家は手ぶらで仕事はできません。使う医療機器、処方する薬の一つ一つ、オーダーする検査全てに基礎医学者の息がかかっています。基礎医学者を低く見る臨床家というのは、食材作りに携わっている人たちを低く見る傲慢で鼻持ちならない料理人に等しいわけです。

大学にいる最大のメリットは、このような基礎医学者の方の言葉を直に聞けることです。普段聞いたことがないウイルス学のカッティングエッジな話とか。とても面白い。だいたい、人が魂こめて取っ組み合っている事物におもしろくないものなんて、ほとんどない。

ただ、日本の不幸としては、あるいは日本の感染症界の不幸としては、基礎医学と臨床医学の役割分担が上手にできていなかったことがあります。猟師さんが必ずしも優れたシェフとは限らないのです。シェフが畑仕事をしなければならない、というわけでもない(もちろん、やりたければやってもよい)。また、大学が露骨に基礎医学優遇で基礎医学以外を学問とは認識してこなかった(今もほとんどしていない)こと。それに対する臨床家の基礎医学に対する過度なルサンチマンが問題なのでしょう。たいていの問題はルサンチマンを原動力にしている。

でも、僕は大学において基礎医学が臨床医学に対して(いろんな意味で)優位に立っているのはバランスのとれた組織としてのある種の大人の知恵を感じます。臨床医学は臨床医学でいろいろ基礎医学にない恩恵を受けていますし。基礎医学そのものが勃興するの良いことです。基礎医学者が臨床家に対して優越感を感じるのも、僕は有りだと思う。基礎医学者が臨床家を縛り付けたりコントロールしようとしなければ。

僕は前に、「医師であれば博士号をとらねばならない、と決めつける必要はない」と書いたことがあり、「基礎医学軽視だ」とか「博士号にも良いところはある」などと反論されたことがあります。もちろん、博士号をとることには良いことがあるに決まっています。博士号をとるな、なんて主張しているわけではない。ただ、博士号取得が絶対的な価値となり、脅迫的な価値となり、そしてルーチンとなるとき、例外を認められないとき、そういう世界は窮屈でしなやかさを欠いている、という話なのです。とりたい人はとり、とりたくなければとらない、でよいではないか。自分の採用したオプションを絶対視し、採用しなかったオプションに対してルサンチマンを抱く必要がどこにある?

他人の幸福が自分の不幸、というメンタリティーが大嫌いです。他人が自分をどう思おうとそれは勝手で、こちらの知ったことではない。他人が自分より優位に立つのも、全然OK。他者に認められるのは本質的に困難だし、それは希求しても仕方がない。ただ、邪魔されたり足を引っ張られるのは、ごめん被りたい。他人の足を引っ張ることに異常な幸福を覚える寂しい人たちが多すぎるのが、ちとうっとうしい。

内田樹さんと釈徹舟さんの「現代霊性論」を読んでいます。宗教とかスピリチュアリティーについてあまり考えてこなかったのですが、いろいろ納得、おおっという本です。

ここで、ちょっと魂に響いたくだりがありました。内田さんが、六曜、仏滅とか大安とか、そういったカレンダーの表記を「宗教的なものを地方の自治体が公費を使っていいのか、けしからん」と抗議して、そのためある市がカレンダーを全部回収した、という話を聞いたエピソード。

「僕はその新聞記事を読んだとき、かなり激怒しましたね。その抗議した市民に言ってやりたい。じゃあ、あなたはカレンダーに曜日が印刷されていることにも反対するのか、と。だって、七日に一日安息日を設けるというのは、ユダヤ=キリスト教の定めた戒律ですからね。その人が自分の家のカレンダーを「曜日のないカレンダー」にしているというのなら、話はわかる。子どもの通う学校や、自分の勤め先に「日曜日に休むのは宗教儀礼でおかしいじゃないか。教育やビジネスに宗教を持ち込んでいいのか」と主張して、日曜も休まず出勤して断固闘っているというのなら、話はわかる。でも、自分はそんなことしていないわけでしょう。自分が現実に生活している場所での宗教儀礼は見過ごしておいて、関係ない他人の宗教儀礼に文句をつけるというのでは、ものの理屈が通らないでしょ。僕、こういう半ちくなこと言う人間が虫酸が走るほど嫌いなんです」

僕も、虫酸が走るほど嫌い。こういう屁のついた理屈を言って自分の価値観・世界観を他人に押しつけ、強要しないと気が済まない人たちには本当に辟易します。自分の価値観、世界観が価値観、世界観の全てだと信じて疑わない人たちに辟易します。そもそも、何かを信じて疑わない人たちに辟易します。周りは下手すると、そういう世界観の押しつけたる平等思想に縛られている人があまりに多いですが、感性の問題として、こういうのがとても我慢できない。その感受性のなさに我慢できない。

本書はこのように続きます。本当に我が意を得たり、です。

「前に大峰山という女人禁制のところに、性同一障害の人たちが入山をこころみたという事件がありましたでしょう。性差別反対を掲げて。女人禁制が得意なローカル・ルールであって、一般性がないというのは指摘の通りなんです。でも、そういうローカル・ルールは非合理的だから撤廃しろと主張している人たちご自身は、性同一障害の人たちなわけですよね。「自分たちの性の特異なありようを認めろ」と、「強制的異性愛体制で全員を標準化、規格化するな」という主張をしている人たちが、なぜ大峰山の人たちの「宗教の特異なありよう」は認められないと言えるのか。なぜ、「性に関する政治的に正しい」一般ルールに従わないものには存在を許さないと言えるのか。彼らは自分の特異性には配慮を要求し、他人の特異性には権利を認めない。自分の論理矛盾に気づかずにいられるその愚鈍さが、どうにも僕には耐えられない」

「私には人間世界の仕組みが全てわかっていて、それを合理的に説明できる。だから、私に説明できないものは存在する必要がないもの、存在するべきではないものだ、という傲慢さに僕は我慢がならないんです。」

医療・医学の世界にも、善意を持ったテロリスト的、不寛容で「傲慢」な人たちは多いです。医療・医学の世界だから、善意を持っているからこそ多いのかもしれません。学生時代に「イントレランス」というグリフィスの映画に感動したのを、ふと思い出しました。あのころから、僕はこうした不寛容に生理的な嫌悪を覚えます。

今日は、広島の集中治療医学会で、ICUと感染症とチーム医療の話をします。他者を尊重せよ、足の引っ張り合いはやめんかい、自分の立場ばかり言うな、高い見地から考えよ、ビジョンを持て、理想を抱け、現状に満足するな、目的と手段を取り違えるな、いい年したおっさんやおばさんは年相応にもっと大人になれよ、という話をします。良かったら聞いてください。

トクホとプロバイオティクス

今週末に「予防と抗菌薬」というお題でお話しする関係で、プロバイオティクスについて調べています。日本ではほとんどがヨーグルトのような乳製品です。そこで、「トクホ」にぶち当たりました。

海外ではプロバイオティクスの臨床研究は結構行われていて、UpToDateにもまとめがあります。で、日本のトクホの臨床試験は?と思ったら「エビデンス集」というのがあるらしい。独立行政法人、国立健康・栄養研究所が作っています。

http://hfnet.nih.go.jp/contents/sp_health_listA003.html

これで乳酸菌のところでヤクルトとかみるみるとかブルガリアヨーグルトとか調べてみましたが、、、

うーん、、、トクホの審査ってこんな感じ???

http://news.livedoor.com/article/detail/4458923/

いろいろ考えます。

それで思い出した。エイズ拠点病院

http://www.lap.jp/lap2/data/ks/940623.html

別にエイズの患者さんが個室に入らねばならない根拠はありませんし、こんなの医療機関であれば全てクリアできる(クリアすべき)問題です。患者のプライバシーに配慮しなくて良い病院なんてあるの(あってよいの)?

多くのエイズ患者さんは拠点病院「以外」で診断されます。診断されることをもっと流布させたいのであれば、下記のような補助金を「拠点病院だけ」に付与すること自体、政治的には稚拙な判断なのです(今もこの補助金、制度同じですか?)。

http://api-net.jfap.or.jp/mhw/document/doc_01_36.htm

http://lohasmedical.jp/archives/2009/08/post-70.php?page=1

大局的に政治的に考えるなら、拠点病院はもう廃止してもよいと思います。なんちゃって拠点病院の弊害も大きいし。真に意味のある情報公開のほうがずっと意味がある。感染症指定病院も歴史的な役割を終えたので、一部の例外を(エボラなど)除き、全廃してほしい。結核も病床要件だけが大事なのです。


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