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まだ息は白い

昨夜は研修医の修了式。みなさん、ご苦労様でした。

昨年よりはずっとましになった。昨年は盛況の隣の食堂でサンドイッチとソフトドリンク、修了書は(領収書みたいな)紙切れ一枚。参加者は白衣を着ていて、そそくさと修了書をもらって仕事にもどる、、、みたいな感じ。こんなに研修医を大事にしない病院でいいのか?と憤慨したものだ。儀式の儀式性に心が現れるのだ。こういうところに、教育病院の質というのが垣間見られるのだ。

今年はポートピアホテルである。送迎バス付きである。日本一(たぶん)美しい神戸の夜景付である。お酒もでれば、シェフがステーキを切り分けてくれる(神戸ビーフではなかったと思うけど)。修了書は額に入れて飾れる豪華なもので、院長が自ら渡してくれる。ベストティーチャー賞とベストレジデント賞も作りました。けっこういいデザインのトロフィーで、センターの事務方は意外に(失礼)素敵な審美眼があるのだと知った。まだまだ直したいところはあるけれど、まあ今日のところはこれでよしとしよう。

ベストレジデントとは、あくまでも象徴作りである。決してコンペティションではない。ここを間違えてはいけない。

ベストレジデントに選ばれなくても優秀な研修医はたくさんいた。「あいつが選ばれて、なんで俺が選ばれないの?」と思った人もいたかもしれない。それは正当な見解かもしれない。単なる勘違いかもしれない。いずれにしても、そういうのはどうでもよいのです。ベストレジデントに選ばれなくても優秀な人はいる。でも、ベストレジデントに選ばれる人は間違いなく優秀なのです。「俺が選ばれないのはどうして?」というのはあっても、「あいつが選ばれるのはけしからん」ということはない。コンペティションではない、というのはそういうこと。

そして、これで「優秀な研修医とはどんな感じか」を具体的にイメージできる。優秀な研修医の優秀さは、テストの点数など「測定できるもの」に還元できない。measurableでないとだめ、というのは研究者だけ。それは、立ち居振る舞いに現れる。測定できない。言語化すら難しい。でも、見れば分かる。これで神戸大学病院のレジデントも、O先生のように振る舞うことが、T先生のように振る舞うことが、そしてS先生(Sでよかったんだっけ)のように振る舞うことが優秀さの表現形なのだと納得できる。優れたものとはそういうもの。いい映画や、すてきな音楽や、美しい女(あるいは男)と同じ。いいワインも同じ。だから、僕はパーカーポイントとか、ワインに点を付けてしまうことには違和感を覚えてしまう(それはtoo Americanなのだ)。どきどきする女の子に、点数を付けるくらい無粋な行為はないだろう。

そうそう、僕からみんなにはアドバイスとかはありません。年長者のアドバイスなんて聞いちゃダメなんですよ。役に立たないから。

年長者が「おれはこうやって成功した」といっても、そのエピゴーネンではどのみち未来の価値は先取りできないのだ。尊敬する恩師を持つことは、いい。でも恩師のコピーでは恩師の教えが伝わったことにはならない。本当に優れた師なら、「俺のまねはするな、俺の教えを忠実に守るな」と言うはずです。師を見るな、師の見ているものを見よ、とはそういうことです。ミケルスからクライフが生まれ、クライフからペップが生まれたように。ある段階までは師のしゃべり方から好きな音楽、読んでる本までコピーするのがよい。でも、いつかはその段階を乗り越えなければならない。師の教えは絶対である。反論しても良いが、従わねばならない。しかし、師のアドバイスに耳を傾けてはいけない。忠実でなくてはいけないが、忠実ではダメである。この矛盾を乗り越えることこそ、大人になるということだ。

それにしても、どうして年をとるとみんな説教が好きになるんだろう。ま、人のこと言えないけど、僕も説教系だし。祝いの場で説教をたれないと気が済まない人は多い。しかも、「人間関係が大事です」みたいなどうでもよいことをいう。そんなことは誰だって知っている。「世界平和が大事」「患者さんの気持ちを考えて」みたいな反論不可能なステートメントは退屈だ。スピーチごときで患者の気持ちが分かるくらいなら、こんな楽な話はない。

どうせいうなら、「人間関係はいかにしてよくなるのか」「人間関係が破綻する最大のポイントはどこか」「人間関係が破綻してでもやるべきことがあるとすれば、何か」、あるいは「人間関係が悪くなるとはどういうことか」みたいなカッティングエッジな説教をするべきだ。スピーチの価値は、誰も考えたことのないようなことをしゃべることにある。

スピーチの上手い人の祝辞はたいてい相手のことをしゃべり、自分の心をしゃべる。うれしい、期待してる、楽しみにしてる、、、というような。必要なのはそれだけなのだ。スピーチが下手な人はじぶんのこころではなく、自分の「こと」をしゃべる。自分のことばかりしゃべる。しかも、長々としゃべる。そのほとんどは昔話だ。そして昔の世界観を援用して、未来の価値構造を説く。それが無理な相談なことは自明なのに、そういう説教をしないと気が済まない。

今日はひさびさに週末にオフィスで仕事。いや、普段も週末仕事してますがオフィスに行くのは久しぶり。図書館に行かねばならない調べ物があることと、昼から兵庫区でインフルエンザの話をするため。週末は会議もなければ電話も(あまり)かかってこないので、快適に仕事できそう。いつものように4時50分に起床して、いつもと違って洗濯をして、洗い物をして、ハンカチにアイロンをかける。その間、テレビを付けるとバルサ・エス・バルサをやっている。神がかっているメッシを見る。いや、もう神様になっちゃったかも。いつもより1時間遅れで出勤する。外は桜が美しい。早朝の繁華街は朝まで飲んでた若者が花束もって記念写真を撮っている。隣でお店の人が掃除してる。派手派手なキャバ嬢(たぶん)が疲れた顔で帰宅しようとしている。強者どもが夢の跡、といった風情の早朝の繁華街は嫌いではない。もう春であるが、まだ息は白い。もう要らないと思っていた手袋が今朝は必要だった。

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