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2010年8月

新書をいくつか(眼からうろこ)

日本は世界5位の農業大国 大嘘だらけの食料自給率 (講談社プラスアルファ新書)

      
日本は世界5位の農業大国 大嘘だらけの食料自給率 (講談社プラスアルファ新書)

著者:浅川 芳裕

日本は世界5位の農業大国 大嘘だらけの食料自給率 (講談社プラスアルファ新書)

これは面白かった。「もやしもん」9巻の底本と思われる。門外漢が事物の勉強をするには現在新書が一番だと思う。専門書だと難しすぎるし、テレビや新聞は浅すぎてよく分からないし、ネットだと信憑性に問題がある。新書も玉石混合だが、これは取材が非常に精緻に渡っていてとても勉強になった。多くの謎が解けた、良書だ。

ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として (ちくま新書)

      
ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として (ちくま新書)

著者:スラヴォイ・ジジェク

ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として (ちくま新書)

好きなジジェクの本だが、難解で分かりづらい。コミュニズムの復活を望むジジェクだが、その理路がどうも分かりづらい。ラカンやカントの理解、アメリカ外交や経済の理解に僕が乏しいからかもしれない「周知のように」といった文章の意味が分からないので行間が読めないのだ。それでもジジェクの独特の文章とレトリックは読み応えがあるので、堪え忍びながら読んだ。

も少しがんばったら、お楽しみの「街場のメディア論」だ。内田さんの論旨はもう分かっている(そして僕の見解はほぼ100%同じ)のだけど、読み直して再確認。

街場のメディア論 (光文社新書)

      
街場のメディア論 (光文社新書)

著者:内田 樹

街場のメディア論 (光文社新書)

結局、口だけ?

新型インフルエンザリスコミWSが31日、9月1日に開催される。今回で3回目。神戸市の白井千香先生や近畿医療福祉大学の勝田吉影先生、コーチングの佐々木美穂先生といったおなじみのメンバーから、神戸中央市民の林先生やFETPの具先生、そして「あの」内田樹先生など豪華メンバーがずらりと揃っている。

参加者もバラエティに富んでいて、感染症の医者から看護師、県の健康福祉事務所の職員、保健所のかた、病院長、大学の先生、企業の方など様々だ。

しかし、欠けているメンバーも。それは官僚たちだ。30日から国会なので仕方ないのかもしれないけど、一人も参加者がいないというのもどうかと思う。あれだけ総括会議でリスコミの不足を指摘されたのに、けっきょく口だけかよ、、、と思っちゃう。

リスコミというのはスキルである。「がんばります」というやる気、意欲だけで習得できるものではない。ましてや、日本にはアメリカやオランダのCDCみたいな常勤のコミュニケーションのプロが配置されているわけでもない。

たしかに、官僚の態度はとてもよくなった。とくに若手はよくなった。

しかし、リスコミは単なる態度の問題ではない。情報のコンテンツをどのように上手に扱うかという戦略的なスキルである。そこについてのノウハウについては、官僚諸氏のほとんどは恐ろしく乏しい知識と技術しか持っていない。そのことが、自分たちの立場を理解されない大きな理由になっていて、しばしば「火に油を注ぐ」状態になっているにも関わらず、だ。

だから、今回は(も)官僚諸氏にはぜひご参加いただき、共に学ぶ機会を得たいなあ、と思っていたし、声もかけていたのだ。他の領域から参加希望があると言うことは、僕らの企画がそれほど評判が悪い(ここでは学びにならない)わけでもない。厚労省に特別なリスコミスキル習得のリソースがあるとも思えない(そんなものがあれば、今が今のようになっているわけがない)。やはり、やる気ないんじゃないか、心の底ではプライオリティ低いんじゃないか、と思うより他ない。

誰が医療を守るのか

誰が医療を守るのか―「崩壊」の現場とポリオの記録から

      
誰が医療を守るのか―「崩壊」の現場とポリオの記録から

著者:真々田 弘

誰が医療を守るのか―「崩壊」の現場とポリオの記録から

ちょっとベタな文体だが、情熱あふれる本である。二部構成で前半が医療崩壊、後半が1960年のポリオワクチン輸入秘話である。メジャーメディアのジャーナリストもようやくこんな本を書くようになったのか、と思うが、フリージャーナリストになっておいででした。

ポリオについては、23日月曜日のVOICE取材にもコメントしている。テレビや新聞に出るのはいろいろイヤなことが多いので、普段は、なるたけお断りしているのだが、ワクチンという大切な問題なのと毎日放送は取材も連絡もとても丁寧なのでお受けした。予防接種行政においては、メディアや国民が「加害者」を規定して、厚労省やメーカーや医療者を糾弾しないことが大事なのだ、と話したのだが、ここはカットされてるかも。

日本におけるGrand Rounds

アメリカになくて、日本にあったらいいなあ、というものに内科グランドラウンドがある。横断的に複数科が集まって、あるトピックについて講演するというもの。

とか言っていたら、佐賀大学ではそういうのがあると総合診療科の小田先生に教えていただいた。佐賀大学はすごいなあ。

神戸も、たまにはやります。明日は内科医会。これは近隣の病院の先生もおいでなのでよいですね。でも、アメリカみたいに朝やって欲しいなあ。講演会を夜行うという悪しき日本の習慣は、女性の活躍に(本当は男性も)ネガティブに影響していると思う。

神戸大学 内科医会

今回は、僕がちょっとお話。今回のネタはタイトルはインフルエンザですが、かなり新ネタで、面白いので(自分で言うな)、ぜひ来てください。

日本は明治時代から進歩しているか?インフルエンザワクチンを考える

森鴎外はもちろん明治の文豪として大変有名である。最近、谷口ジローの漫画で久しぶりにその名前をみる機会があった。

医学の世界では、森鴎外と言えば高木兼寛との「脚気の論争」で有名である。陸軍医師であった森鴎外は脚気を感染症が原因だと「理論的に」推論し、海軍医師の高木は栄養説をとった。しかし、実際に麦飯を食わせた海軍兵士からは脚気が激減したのに対し、森鴎外の説をとった陸軍は日清戦争で4000人、日露戦争で28000人の脚気による死者をだしてしまった。

今では脚気はビタミンB1欠損による疾患であることが証明されているが、当時ビタミンが発見されていなかった日本では「理論的に」脚気がビタミン不足で起きる理屈が説明できなかった。高木も森との「論争」では勝てなかったという。しかし、実際にやってみて、脚気は減ったのだ。理屈は後からついてくる。

松村先生たちの近著にもこのエピソードは詳しい。

地域医療は再生する―病院総合医の可能性とその教育・研修

      
地域医療は再生する―病院総合医の可能性とその教育・研修

著者:松村 理司

 

医学の世界では演繹法はあまりそぐわない思考方法である。帰納法、つまり現象を観察してからあとで理論がついてくる方が実際的だ。疫学研究もRCTも症例報告も、つまるところ帰納法を用いたものの考え方である(もっとも、症例報告には後付のこじつけみたいな演繹法的な発表も多いが)。

ところで、この「理論が事実よりも優位に立つ」現象は平成の今でもみることができる。例えばインフルエンザワクチンだ。

あちらこちらで、「注射によるインフルエンザワクチンは鼻腔粘膜におけるIgAを十分に作らないから効果がない」と指摘される。理屈の上では、そうかもしれない。

しかし、注射のインフルエンザワクチンはプラセボに比べてインフルエンザの発症を減らすことが出来る。このことはたくさんのスタディーが証明している。さらに、その鼻腔粘膜を刺激する経鼻生ワクチンよりもよく効くのだ。実際やってみないと分からないものだ。

N Engl J Med 2009;  361:1260-1267

僕らは明治時代からちゃんと進歩しているのだろうか?これは一考を要する命題だ。

もっとすごい「理論」になると、ホメオパシーというのがある。たとえば、

それでもあなたは新型インフルエンザワクチンを打ちますか?―常識を覆すインフルエンザ論-インフルエンザはありがたい! (由井寅子のホメオパシー的生き方シリーズ 5)

      
それでもあなたは新型インフルエンザワクチンを打ちますか?―常識を覆すインフルエンザ論-インフルエンザはありがたい! (由井寅子のホメオパシー的生き方シリーズ 5)

著者:由井 寅子

それでもあなたは新型インフルエンザワクチンを打ちますか?―常識を覆すインフルエンザ論-インフルエンザはありがたい! (由井寅子のホメオパシー的生き方シリーズ 5)

によると、

かぜというのはある種の浄化であるということです。私たちはかぜをひくことで、体毒を外に出していけるのですよ。だからそのかぜの症状を誘発してくれるインフルエンザ(流行性感冒)はありがたいということです。みなさんも、新型インフルエンザにかかって十分体毒を外に出しましょう。やっぱり流行には乗り遅れないようにしないと、なんたって新型ですからね。(14ページ)

なんて書いてある。

僕自身は、ホメオパシーの理論やプラクティス「そのもの」を否定も肯定もしない。信じるものは各人の自由だからだ。僕のやっていることや考えを妨害されない限り。

ワクチンについてのホメオパシーの見解は僕のインタレストに障害を与える。ここにはきちんと反論しておくべきだ。とんでもな話を黙殺するのは、リスクコミュニケーション上のタブーである。くだらない見解ほど、丁寧に真摯にまじめに反論しなければならない。

インフルエンザワクチンは予防効果がありません。だからインフルエンザの予防接種をすればするほど、そのぶん免疫が低下するので、よりいっそうインフルエンザにかかりやすくなるというわけです。中略 私も多くのクライアントさんから、インフルエンザの予防接種をしたらインフルエンザにかかったと聞きましあた。中略 だから、一度きちんと統計をとってみたらいいと思うのですよ。インフルエンザの予防接種をした人の方が、インフルエンザやかぜにかかる確率がかなり高くなるはずです。インフルエンザの予防接種をした人の方が、インフルエンザやかぜにかかる確率がかなり高くなるはずです。(65ページ)

予防効果がない、と主張しておきながら、実際には存在する「統計」を見てもいない。

さらに、さらに、筆者は予防接種を受けると人間が「動物化」すると主張する。それはジェンナーが牛から得た牛痘を使って予防接種した故事を援用し、

もともとウシの病的生命の一部を埋め込まされたわけですから、人がウシ化するのも当然ではないかと思うのです。(92ページ)

たしかに、昔の風刺画ではジェンナーが牛痘を接種すると牛になってしまう、というのがあった。

さらに、

予防接種の重度の被害者の映像を見ていたとき、私には彼らがウシに見えたり、サルに見えたり、ニワトリに見えたのです。本当に。(93ページ)

予防接種の被害者の方々も、ずいぶんなめられたものである。

がんばっただけの成果はある

耐性菌があまりに増えすぎて、一時complacencyに陥っていたアメリカだが、ようやく成果が見え始めた。MRSA感染の減少にそれが見られる。

http://jama.ama-assn.org/cgi/content/abstract/304/6/641

感染対策はたゆまぬきめ細かなみんなの努力の成果の賜物だ。だれかが、一時的にがんばってもうまくいかない。成果を出すには時間がかかる。地味な作業だが、報いはある。

さらば 厚労省

 

さらば厚労省 それでもあなたは役人に生命を預けますか?

      
さらば厚労省 それでもあなたは役人に生命を預けますか?

著者:村重 直子

さらば厚労省 それでもあなたは役人に生命を預けますか?

このブログでも何回かお名前を出している村重直子先生の御本。なかなかに面白い。

ほとんどの本がそうであるように、本書もうなずける点も多く、そこはちょっと合わないなあ、と感じる点もある。特に第三章は筆者の面目躍如たるところで、この方じゃないと書けないだろうなあ。ここが村重先生の魂がこもった基本形(だと僕は思う)ので、本書のタイトルをみて眉をひそめた官僚諸氏も、食わず嫌いせずに、きちんと読んだ方が良いと思う。そのうえで、反論したければ、きっちり反論すればよい。でも、その道で飯を食っているのであれば、実名くらいはプロの大人のたしなみなのだから、だしましょうね。

TBLとオーセンティシティ

導入することになっているTBLのワークショップに参加した。都合で2日目は参加できなかったが、本を読んで説明を聞いて、大体の要諦はつかめた。意義深いことだ。

このような舶来もののコンセプトを輸入するとき、しばしば問題になるのがオーセンティシティの問題だ。日本の場合、その根っこのところを導入しないで形ばかりチマチマ真似るときがある。

「これは本当の(本来の)TBLじゃない」

とか言われてしまうのだ。マインド・マップ然り、コーチング然り、NLP然り、、、、そこには

正しいオーセンティックな概念があり、そこから一歩でも形を外してしまうと、

「間違い」

になってしまう。マインド・マップなんて一番ひどくて、創立者の狭量さ(私のが正しいマインドマップ)にはひどくがっかりしたものだ(お金の問題かもしれんが)。形のバリエーションなんて一番どうでもいいことなのに。最悪なのが指導医講習会で、「正しい」GIOとかSBOを強要するタスクで、あれでみんなげんなりしてしまう。もう、いいかげん、あのつまらんセッションはやめにしませんかね、みなさん。そういえば、WS参加者の中にブルームの「正しい」タキソノミーかどうかの議論が起きていて興味深かった。言葉なんて全て恣意的な規定なのだから、どのタキソノミーがどうこういう「分類上の正しさ」を希求するのももうやめたほうがよい。「ブルームの呪い」から自由になったほうが教育現場は、よりしなやかになれる。

もちろん、日本でも要諦をつかむのがうまい人もいる。坂本竜馬なんて民主主義の要諦をよく理解していたし(些末なところは多分無視していたはず)、最近では例の高校野球マネジャーの本がそうだった。内田樹さんは要諦をぐわしと鷲づかみにする天才だ。リスコミWSも半月先になった。内田さんの慧眼を拝謁できるのはうれしいかぎり。

あと、今回一番よかったのが、他大学、とくに地方が非常にがんばって医学生教育にコミットしていることを学んだこと。お尻に火が付いているから必死です。ロケーションのよさにあぐらをかいているから、神戸大なんて全然まだ努力も工夫も足りない。自らの甘さにとても深く反省したのでした。

アリエッティの世界 久々に面白かった宮崎映画

借り暮らしのアリエッティに関するメモ

以下、ネタバレなので観てない人は読まぬ方が良いです。

「借り暮らしのアリエッティ」は、結論から言うと素晴らしい作品と思う。このようなスタティックで動かない映画を上手に見せるのは本当にすごい。映画は結局、面白ければいいんだよ。

僕は宮崎アニメは「紅の豚」までが好きで、「もののけ姫」以降がどうしても好きになれない。ポニョにいたってはみてもいない。テレビ放映されていた時、たまたま出張先のホテルでテレビつけてたが、全然観る気になれなかった。ポニョがダメな映画だと言っているのではない(みてもないし)。単に好き嫌いの問題で、ああいう政治的な正しさを全面に出した映画が苦手なのだ。

でも、アリエッティはよい。久々に大仰なテーマを前面に出さず、小さなストーリー、個人的なストーリーを語るやり方は素晴らしい。絶滅種とか、ヒトとそれ以外の共生という大きなテーマも少し入るが、やはり人間と小人は一緒に住めない、という結論に納得してしまうのも良い感じである。近年の宮崎アニメにありがちな「政治的な正しさ」も希薄で、しょうがアリエッティに「お前は絶滅する運命にある」なんて言っちゃうところはすごい。キャラの複雑さが素晴らしい。最大の悪人も、所詮、家政婦というのも面白い。悪って言うほどの悪でもないし。

宮崎アニメの父親は弱くて、おっちょこちょいで、親しみの持てる柔らかい人が多いが(魔女、トトロなど)、それは80年代のいけていない理不尽なお父さんに対するアンチテーゼだったかもしれない。逆に理解はあるけど頼りないパパが増えた現在、アリエッティの父親はスーパーな娘がすごいと思う父親である。ナウシカにおけるユパみたいな存在だ。こういう父親が出てくるのも時代だろう。母親はポパイのオリーブみたいな逆に頼りない存在で、これも近年の宮崎アニメにあるしっかりした母親とは違うタイプ。でも、父も娘も彼女をなじったりせず、よい母親とみなしている。このへんも面白い。

全体的に話がスタティックである。一家を危険にさらし、引っ越しまで強いる行為を取ったアリエッティに父も母も別にどなったりしないし、鍵をかけてとじこめた家政婦をしょうもなじったりしない。この映画では「間違ったことをやる悪人が正しい善人に懲らしめられる物語」という、ハリウッド映画の定番的構造を取っていない。

たぶんわざとだろうが、設定の省略も巧みでヘミングウェイの小説のような意図的な割愛も感じる。アリエッティたちが日本語を解するのも不思議だし、ひらがなを読めるのも分からない。「心臓」とか「手術」というボキャブラリーや社会通念を持っているのも一切説明はない。でも、それはしなくてよいのだ。「借り」はもちろん、「狩り」に対峙する用語である。

主人公アリエッティは美人である。最近の宮崎アニメは美人否定の流れになっていたが、久しぶりに、ナウシカ路線の強くて美しくて優しいヒロインの復活だ。物語の基本を政治的に揺さぶらなかったのは良いと思います。

あとは、古典的な宮崎アニメのオマージュが満載で、ファンにはサービス満点でした。どのくらいあるのかよく分からなかったが、とりあえず

ジムシー(!)が「うまいぞ!」と足を出すとか、
猫バスっぽいでかい猫、口を開けるとトトロっぽい。
ルパンの様に壁を這い上がり
ナウシカがオウムの目をとる刀のシーンとかぶるまち針
パンダコパンだの洗濯物干し
メイとさつきっぽい古い写真
オウムのようなダンゴムシ
ムササビジムシーとハンググライダー不二子(このへんになるとこじつけかも)
ハイジのパンとチーズ
ラピュタのパズーのようなパンの上のおかずの食べ方。

あと、宮崎アニメはヨーロッパ好きだが、古い日本も捨てがたい、、、という揺れ動きがあった。今回見事に日本の中にヨーロッパっぽい小人の世界を作り、両者を併存させてしまった。ここも戦略的だ。

分からないことは多い

調べてみないと分からないことは多い。

マキシピームとファーストシン、違いはなに?

答え。腸球菌への効果。

http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/9182117

教科書的には、腸球菌にはセフェムが効かない、というのが常識。しかし、セフォゾプラン(ファーストシン)は効果あり(らしい)。そういえば、セフトリアキソンも若干はPBPにくっついて、併用する価値はある(かも)という話もありました。

まあしかし、腸球菌を殺す目的でわざわざファーストシンを用いる必然性はどこにもないので、プラクティス的には特に影響ないけど。

感染症関係の学会は統一した方が良い。

日本には感染症関係の学会がうじゃうじゃある。地方会もたくさんある。しょっちゅう学会やっている。ちまちました会がたくさん存在するので、なかなか盛り上がらない。

プライマリ・ケア関連の学会が統一した。感染症業界も世界的にはとても貧弱なのだから、バラバラにやっていないで統一したらよいと思う。あのうっとうしい専門医システムも統一すべきだ。僕は前から主張しているが、ICD、感染症学会専門医、化療学会抗菌薬なんとか、、指導医みたいなシステムがバラバラにあってバラバラに更新するのは経済効率が悪すぎる。英検みたいに階級制度にして統一すればよいのだ。感染症だから、クラスA、クラスBとかにしてもよい(このくらいのジョークは分かるでしょ)。

話はずれるが、学会発表の時に学会員以外は発表禁止、という狭量さも止めて欲しい。これは家庭医両学会もそうだった。質を担保したければピュアにアブストラクトだけで吟味すればよいのだ。だいたい、会員だからというののどこに質の担保があるというのだ。「内部の意見しか聞きたくありません」という狭量な態度は、新しい地平を追い求める学問の徒から一番外れた態度だ。外国からも参加者を募って、もっともっと活気のある学術集会にすればよい。中国もシンガポールも、多くの国がそうやっている。

日本がだめだ、といっているのではない。逆である。日本もけっこうちゃんとしているのだから、ちゃんとそれを外部にも示さないと、という意味である。外部に開けていない、閉じたサロンを作ってはいけない。

感染症の学会の歴史は長い。なにしろ昔は病気と言えば感染症と相場が決まっていたのだから。だから、伝統ある学会の名前を残して、、みたいな意見もあるかもしれない。

でも、ここらで勇気を持ってまとまったほうがよいだろう。大丈夫、歴史の長い政党だって銀行だって合併できるし、サンヨーも消えた。これらにくらべたら学会なんて小さいものだ。今更学会長なんてやってもしんどいだけで、さしたる名誉でもないしね。

夕暮れのこない日の出はない。滅びのない帝国もない(アメリカも、いずれ滅びるのが歴史的な必定だ)。各自の小さなエゴを捨てて、もっと大きな世界観で貧弱なこの業界を、それでもしかし最近勃興しつつあるこの業界を立て直すのだ。なーんて、学会に一番興味のないアウトサイダーの僕が言っても説得力ないけれど。

症例報告、学会発表、学会、評価、価値、未来

感染症学会の地方会が11月にある。東日本は締め切ったが、中日本と西日本はまだ募集している。

http://www.jsidc53.org/
http://www.med-gakkai.org/jaid-w80/endai/

化療学会も西日本は空いている。
http://www.med.oita-u.ac.jp/jscw58/theme/

地方会の症例報告は研修医の「発表する経験の場」として設けられている感がある。でも「こんな病気見ちゃいました」的な珍しい病気、珍しいばい菌品評会ではつまらない。むしろ症例報告こそ真剣に論考する場としたい。

最近思うのだけど、症例報告は一種の質的研究である。これは質的研究に慣れ、その定型性にどっぷり浸かった人には受け入れられないアイディアかもしれないが、「量的ではないアプローチが質的研究」であることを考えれば、そういう見方はありなんじゃないか。

昔の学術誌を読むと、一症例一症例をよくよく観察して、記載する「観察的学問」をよくやっているなあ、と思う。現象をそのまま切り取って観察しようという目的が明快である。最近の症例報告はその辺が弱い。case reportは多くの場合字数制限が普通論文よりも厳しいが、そう言うところが質的研究としての症例報告の面白味を消してしまっている。

今も一つ症例報告を書いているが、なかなか面白い作業である。不明熱のケースレポートだ。不明熱とはコモンな現象であるが、なにしろ「医者ががんばっても原因が突き止められない」のが不明熱の定義である以上、その原因はコモンでない事が多い。「コモンな現象だが、原因はバラバラでまれ」なのだ。したがって、量的なアプローチだけではこの現象を上手く切り取れない。ケースレポートにする価値の高いカテゴリーである。

僕の英語力では本を書いたりするのはむずかしいので、せいぜい論文を書くのが一番の英語作文の営為となる。単語を吟味し、表現を吟味して、文章を推敲するのは実に楽しい作業だ。そのなかで、ケースの構造を吟味していく。日本語だと何となく雰囲気で通してしまえそうなところが、英語(まあフランス語でもイタリア語でも中国語でも良いけれど)では通せない。質的研究は自分の母語でやるのが常識とされているが、むしろ外国語でやった方が理論の吟味には有用なんじゃないか、とすら思う。質的研究では言葉がとても大事なのだが、外国語で書くと言葉の吟味に厳しくなる。

地方会でもよい症例報告をどんどん出して欲しいと思う。学術的にはケースレポートは一段低く見られているが、そんなことは関係ない。自分の知的作業として価値の高い仕事をしていればそれでよいのだ。他人の価値観なんてどうでもよい。何億もかけて何万人も集めたRCTのほうが知的価値が高いか?と言うと、そいつはどうかなあ。そっちのほうが定型的で、むしろビュロクラッツに任せておいた方が良いのではないかと思う。

それで思い出した。学会と他人の価値観である。先週医学教育学会に行った。学生の発表を見るためだ。なかなか上手にやっていた。神戸大学のチュートリアルはいけてないから、なんとかせんかい、と学生が教員を突き上げたよ、、というプロセスを発表したものだった。平井教授と橋本教授も聴衆に混じっていて、「神戸大学の教育はこんなにいけていない」という学生の発表を神戸大の教員3名が微笑ましく拝聴する、という奇妙な構図になった。

僕が学生のころに女子医で始まったチュートリアル。学生の「講義はつまらん」という意見がそれをドライブしていたのだから、歴史というのは回り回るものだ。

どんなシステムにも賞味期限があり、制度疲労が起きる。ビジネスモデルと同じく、教育モデルにも賞味期限がある。とくに新しい理論ほど長持ちしない。昔ながらの教育方法の方が長持ちする、、、というのは僕らが体得した経験知である。というより、新しい理論は時代の批判に耐えられなくなってどんどん落っことされて、長く続いているものだけが歴史の批判に耐えた、、、という言い方の方が説得力があるのかもしれない。

新発売された抗菌薬をあまり使いたくないように、目新しい教育モデルやビジネスモデルも、あんまり飛びつかない方が良い。みなが飛びつくようなものこそ、外からぼおっと眺めておく方が良いのだ。バカ受けするお笑い芸人は長生きできない。ここ5年ばかりで僕らは「一番流行っている芸人は数年後に消える」ことを学んだ。地味な古典落語を長くやっていた方が、蚊取り線香みたいに長生きできる(かも)。

で、医学教育学会で学生と会話していて、感染症内科は来年はTBLやるんだよ、もうたくさんチューター集めて退屈な診断当てゲームみたいなのはやめますよ、という話をしていた。

TBLでは個人はどう評価すればよいのか?と質問される。

たぶん、妥当な評価方法はあまりないし、それをやろうと思うとすごいエネルギーを使う。評価にエネルギーを大量に費やすのは経済効率が悪いし、日本でもアメリカでも評価にエネルギーを使いすぎると失敗する、というのはおきまりのパターンだから、適当にやるよ、、、と僕。

でも、それではフリーライダーが出て公平性を欠くのでは?と学生

いいのいいの、他人と比べて自分が損してる、とかそういう世界観は20歳を過ぎたら捨てちゃえばいいのだ。他人が楽しようと、それは自分には関係のない話。どのみち、10年もたてばそのような怠惰がその人に復讐するのだ。若いうちの努力、もがきはとても大事で、それはちゃんといつかあなたを裏切らずに戻ってくる。でも、その戻ってくる見返りの事を今考えてはダメだ。見返りなんてゼロでも良いから、今という時間、今という一瞬一瞬に情熱を燃やすしかないのだ。評価される自分のために、未来に大きくペイするために勉強してはいけない。そういう勉強は安くなってしまう。投資としての勉強はつまらない。勉強としての勉強だけに意味がある。自分で自分の品位や価値を下げてはいけない。安売りしてはいけない。そのような孤高の集団になれば神戸大ももっともっと良くなる。

とここまでしゃべったかは覚えていないが、そんな感じ。

世間は夏休みだ。感染症内科も朝のカンファは木曜のMGH以外はお休み。勉強や仕事ばかりしていないで、大いに遊ぼう。

「公衆衛生」の特集

雑誌「公衆衛生」にパンデミックインフルエンザ2009の特集が載っている。

http://sec.igaku-shoin.co.jp/journalDetail.do?journal=33358

うーん、なんかイマイチだなあ。起こった事の説明にはなっていても、日本の本質的な問題についてはほとんど触れられていない。僕自身も一つ書いているが、この論考も読み直すともうひとつだ。もっと深く問題を考えるべきだった。反省だ。「海外との比較」を依頼されたのだが、そもそも「海外と比べて日本は」という切り方自体がすでに古いと思う。

日本の公衆衛生や疫学のあり方そのものの前時代性とまっこうから立ち向かう勇気を持たなかったのが、最大の失敗だったのじゃないかな。それをいうと非難囂々かもしれないけど。

リスコミWSも今月になった。内田樹さんもおいでになることだし、もうすこし新しい切り方でこの問題を再考したい。

胸水のワークアップ

いろいろ測る人が多いけど、なんのためだろう?

「20100802081015.pdf」をダウンロード

口蹄疫はむずかしい

たまたま東京に行ったので、葛飾の感染・免疫懇話会に出る。

口蹄疫の勉強のためだ。帝京科学大学の村上洋介先生のレクチャーを聴く。非常に勉強になった。まったく動物の感染症って難しい。でも、僕のレクチャーもみんな今の僕みたいな気持ちで聞いてるんだろうな。初心に戻った。でも、逆に言うと、人の感染症も動物的にはアプローチできないんだろうな、という意味でもあるな。知事とか、政治家とか、メディアとかが軽々しく「こうするべきだ」とか「こうするべきじゃない」とか口にしない方が良い。インフルエンザと同じ構造で間違っている。

雑ぱくなメモ

牛は検出動物
豚は増幅動物
山羊、羊は病気が出にくく運搬動物

潜伏期は2日から10数日

・動物によって異なる。発病前にウイルスを大量に排泄している。
・排泄物、分泌物の中では大量のウイルスがあり、感染力は長時間失われない。溝のある靴などは危ない。
・ワクチンは発病を防ぐが感染を防ぐ事が出来ない。だから、ワクチンが皮肉にも感染を広げる可能性がある。
・先進国はワクチンを接種せず、病気も起きていない清浄国(62カ国)。
・ロシアはワクチンベルトを作って侵入を防いだ。
・何週もウイルスをもつキャリアも
・農業テロの対応ウイルス。BSL3−Agクラスの施設で扱う。
・畜産物の検疫はOIE基準でマニュアル化している。
・発病予防用ワクチンと緊急防疫用ワクチンはことなり、後者は抗原性も強くアジュバントも多い。免疫応答は早く。宮崎で使ったのは後者
・動物によって免疫応答は異なる。豚は応答悪い。
・世界の研究の中心は英国。
・日本は小平とつくばの動物衛生研究所

・台湾は1997年から発生しているが、ワクチンで対応しようとして上手くいかなかった。殺処分は300万頭以上
・動物は立てなくなってしまって、人道的に殺さざるを経ないことも。人道的に。煮沸すれば患畜を食べる事は可能。
・韓国2000年。ワクチン接種。1年以上かかった。
・英国 殺処分方式。1960年代には風によって60kmも飛んでいった事も。1991年にはEUでワクチン中止。
・2001年から羊から発生。牛に。フランスの講師と感染羊で。オランダにも波及。畜産産業への不投資が起こした人災か。
・現在、口蹄疫抗ウイルス薬開発中
・熟成ハムは200日近くウイルスを保持する事もある。これを豚に与えたりすると、問題になる。
・宮崎では90万くらいの殺傷

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