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2010年9月

今週のMGH

3ヶ月研修を本日終了するU先生の発表。難しかったです。お疲れ様でした。

この週末の講演(東京、富山)

土曜日は東大で話をします。久しぶりにアメリカネタです。

2010年 日米医学医療交流セミナー 
≪ 海外医学留学の魅力と、留学への準備・秘訣 ≫

日時:2010年10月2日(土) 12:00〜20:00 (11:00 受付開始)
会場:東京大学医学部 鉄門講堂(本郷キャンパス・医学部教育研究棟14F)

主 催 : 財団法人 日米医学医療交流財団   共 催 : 東京大学大学院医学研究科・医学部 

15:30〜16:00 ●米国のレジデントを終えて市中病院での診療と大学での臨床教育へ
【講師】神戸大学大学院医学研究科 教授      岩田 健太郎


で、日曜日は富山で抗菌薬の話です。

第51回北陸支部生涯教育講演会

開催日時 2010年10月3日(日) 9時〜12時20分
※9月12日から変更になりました
主催会長 富山大学 戸邉 一之
会場 富山国際会議場
富山市大手町1-2
TEL:076-424-5931

抗菌薬の考え方、使い方

ひさびさにB級ワイン

カッシェロ・デル・ディアブロ・カベルネ・ソーヴィニヨン[2008]年コンチャ・イ・トロCasillero del Diablo Cabernet Sauvignon [2008] カッシェロ・デル・ディアブロ・カベルネ・ソーヴィニヨン[2008]年コンチャ・イ・トロCasillero del Diablo Cabernet Sauvignon [2008]

販売元:うきうきワインの玉手箱
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マイポ・ヴァレーの果実とタンニン豊富なワイン。熟成も十分で今でも楽しめます。この値段なら大満足っす。ようやく赤ワインが楽しめる季節になってきました。

砂地に 水撒く営為にしても

ケニアに来ている。ナイロビのスラムで年に二回行われる無料診療所のお手伝いだ。何でも見る無料の診療所をILFARがひらいていて、そのお手伝いである。お世話になっている稲田先生、宮城島先生、久保先生、大島先生、学生の千葉くん、後藤さん、アメリカから来ている3人のドクター(うちひとりは歯科医)、その他大勢の現地のボランティアのみなさまに感謝である。

この無料診療所は、あくまでもHIV診療への布石である。いきなりHIV診療はどこの国でも難しく、ケニアでも例外ではない。HIV感染者と分かった人の家に放火をして焼き殺し、その遺体を怖がって誰も引き取りに来ないようなエピソードもあるのである。

だから、「何でも見ますよ」の診療をやる。「ついでに」HIV検査をしませんか?と誘いをかける。

本日は400人以上の患者を診て、陽性者は3人判明。検査を受けない人も多いし、ある意味生産性は悪い。それでもスラムの医療アクセスのないなかで1日で3人も感染者を見つけたのは大きい。日本で能動的に感染者を見いだす営為が、これほどの成果を挙げることはまずない。

僕は今日90人以上の患者を診た。小児科医が一人しかいないので、「なんちゃって」小児科医で70人は子供、あとは大人。子供のほとんどは風邪。あとは頭部白癬、ギョウ虫、回虫などなど。人生でこんなにメベンダゾールを処方したのは初めてだ。

大人は慢性疾患が多い。頭痛、腰痛、腹痛など。フォローアップがないのでその場限りの対応しかできない。1週間程度の痛み止め。胃薬。お茶を濁すような医療でしかない。なかには「やばい」頭痛や胃がんもあろうが、そこは知らんぷりである。高血圧やRAを見つけてもなにもできない。なかに結核やマラリア疑いの患者がでたり、フィラリア疑いの患者もいるが、検査もできないので見切り治療か紹介をするか、お金のない人はギブアップする。継続的医療は最初から目指していない。

目指していないので「流しの」医療だ。頭痛の原因は考えない。偏頭痛だろうが、脳腫瘍だろうが、詐病だろうが(薬ほしさに来る人も多く、それを売る人もいる)、関係ない。何しろフォローアップはない医療なのだから、冷静になって考えると、「鑑別診断」なんて意味がないのだ。アメリカの研修医が隣で高血圧患者にアムロジピン1ヶ月分の処方箋を書いていたが、これも意味がない。ほとんどの患者は薬を買う金がないし、たとえあったとしても一ヶ月後にはふりだしである。とにかくたくさん患者を診て、流していくのだ。そして、HIV検査につなげる僥倖をまつ。

このような生産性の低い営為は無駄と考えるべきだろうか。そういう考え方もあろう。だがしかし、こういうやり方のみが、ここでのあり方なのだとも言える。ギブアップか、あがくかという二択問題である。あがくという選択をここではとったのだ。


脳膿瘍の治療

今度は治療。外科の先生の助力を得ないと治せない感染症は多い。抗菌薬の治療期間に注目。

「20100917144953.pdf」をダウンロード

みなさん、よくがんばりました。来週は二日祝日だから実習お休みなんだって。いいなあ、僕も学生に戻りたい。

脳膿瘍の臨床像

簡単なようで難しい脳膿瘍。熱が出ないこともあるのです。

「20100917144853.pdf」をダウンロード

B. cepacia

cepacia みたいな耳慣れない菌も初出の時にしっかり勉強しておくと良い。

「20100917144751.pdf」をダウンロード

血管炎の分類

これも実に臨床的な知的作業。ケアネットDVDで岸本先生とやったやつと同じです。

「20100917144636.pdf」をダウンロード

NOMI

次はNOMI。これも忘れていたのでよい勉強になりました。学生にレポート書かせるのが一番効率の良い勉強法だな、、と思う今日この頃。

APSについて

こういうのもがっつりまとめて勉強しておくと後々役に立ちます。

「20100917144423.pdf」をダウンロード

肺に空洞の出来る病気

うちでよくやるぐるぐるシミュレーション(肺に空洞の出来る病気いってみよ、と1人ずつ言わせてぐるぐる回す遊び)。これ、繰り返していると鑑別リスト作りがうまくなります。症候からアプローチするのは勉強になります。とくに「空洞」みたいなよく「ひっかかる」キーワードの時は。

「20100917144221.pdf」をダウンロード

ホメオパシーのワクチン反対は妥当か?

というお題で学生さんにレポートを書いてもらったが、もう一つ議論に深みがない。ワクチンが効くか効かぬか、ではなく「ホメオパシーやってる人の主張にどう答えるか」という課題だったのです。短期間でまとめるのは難しいんですね。論考とは時間をかけて行わねばならないのでしょう、、、

「20100917143938.pdf」をダウンロード

各学会の見解

報道に対して、感染症学会は丁寧にQ&Aを作っている。

http://www.kansensho.or.jp/

化療学会も声明があるが、こちらは今ひとつ

http://www.chemotherapy.or.jp/news/gakkai_80.html

環境感染学会

http://www.kankyokansen.org/new/100908_news_MDRAB.html

臨床微生物学会。厚労省からの情報のコピペのみ

http://www.jscm.org/

ハイデガーさん、つらいっす。

ハイデガーの「存在と時間」を読んでいるが、全然分からない。訳の問題かと思ったら、おおむね翻訳の評判はよい。でも、言葉の意味が全然分からない。レヴィナスもすごく難しいし、ポストモダンのフーコーやバルトも難しいけれど、あれは「難しいことそのものを目指した難しさ」なんだな、と納得しながら読める。ハイデガーはページをめくるのが正直しんどい。どうしたらよいんでしょうね、、、、、

存在と時間〈1〉 (中公クラシックス)

      
存在と時間〈1〉 (中公クラシックス)

著者:ハイデガー

存在と時間〈1〉 (中公クラシックス)

同時並行して読んでいるのがカントの「純粋理性批判」だが、こちらはめちゃくちゃにおもしろい。分かっているかどうかは自信ないけど、とにかく言葉に納得でき、ページをどんどんめくりたくなる。翻訳の問題かなあ。こちらの受容と需要の問題かしらん。

純粋理性批判〈1〉 (光文社古典新訳文庫)

      
純粋理性批判〈1〉 (光文社古典新訳文庫)

著者:イマヌエル カント

純粋理性批判〈1〉 (光文社古典新訳文庫)

学会に行かなくとも

国際学会に行かなくても内容が分かる世の中でありがたい。

新しいモップが病室をきれいにするとか
http://www.medscape.com/viewarticle/709367

人工弁のIEにダプトマイシンとホスホマイシンの併用はどや、とか
http://www.medscape.com/viewarticle/709135

フィダクソミシンというヤケクソのような薬が偽膜性腸炎にバンコマイシンよりよい?とか
http://www.medscape.com/viewarticle/728550?sssdmh=dm1.637314&src=nlconfnews&spon=3&uac=46045PX

おしりの培養で多剤耐性グラム陰性菌は見つかりまっせとか
http://www.medscape.com/viewarticle/728417

50回目のICAACは豊作のようです。

一般化してはいけない問題

匿名性の妥当性についてもう少し考えてみる。

 例えば、ある殺人者に関する情報を市民が通報するとする。このときは匿名性が担保されないといけないと思うのが大勢の見方だろう。もしその殺人者が逮捕され、刑に服し、そして出所したとき本人から、あるいは出所しなくてもその仲間から報復される恐れがあるからである。一般市民が善意で善行をを行う場合、これは割に合わないリスクだ。これはベンサム的な功利主義的な理屈かもしれない、、、とサンデル先生なら言うかもしれない。
 では、万が一その殺人者と思った実は無罪であった場合。その場合もこの「密告者」は罪に問われることもなければ、その冤罪の苦痛を受けた人に名前を告げる必要はない。この問題は少し微妙である。冤罪を受けた人も「善良な市民」かもしれない。自分を貶めたにっくき密告者の名前を教えろ、報復してやりたい、謝罪を求めたい、、、こういう感情がわき起こっても少しも不思議ではない。また、間違って密告し、ある無罪の市民を苦痛に陥れた「密告者」の道義的責任はあるのか、ないのか?
 これについては「制度的に」密告者の安全は守られ、匿名性も維持されるのが通例だ。これは道義上と問題と言うより、その権利が担保されないと制度そのものが破綻してしまうという形式上の問題だと思う。密告した段階では自分の密告が正当かあるいは不当なのかは「事前には」知りようがない。しかし、たとえ不当な密告であるリスクがあったとしても、その不当な密告はチャラにしますよ、ということを事前に担保していないとこの通報制度は成り立たない。成り立たないから、チャラにするのである。しかし、密告された苦痛を被った冤罪をおわされた市民の名誉は泥にまみれたままで、それを密告者は制度的にも道義的にも補償することはない。
 もし、その密告者が「実は密告したのは俺でした。ごめんなさい」と実名をあげ、顔を出して直接謝罪するとしたらどうだろう。多くの密告者は非密告者の知り合いである。家族かもしれない。配偶者かもしれない。このような謝罪は、「密告が善意で行われた場合」つまり、本当に殺人者であると密告者が勘違いしていた場合、すがすがしい告白となる可能性がある。これを美しい行為と考える人も多いのではないか。逆にこのような告白がなければ、非密告者は「俺をちくって陥れた奴は誰だ」と長い間疑心暗鬼になる可能性もある。その苦痛を責任ある匿名の密告者はどのように補償できるだろう。あるいは補償すべきなのか。
 密告が「悪意で」行われた場合はどうだろう。当の犯罪の有無にかかわらず、ある人を「貶めてやれ、やっつけてやれ」という悪意の元での密告である。あるいはその人の没落が自身の出世につながっているかもしれない。この場合、その匿名性は正義の名に照らして正当な行為と言えるだろうか。
 警察や検察が冤罪が起きても処罰されたり、「冤罪を理由に」起訴されたりしないのは、彼らが「善意でやった」結果なのだから仕方ないのだ、という前提がある。そこには僕らの警察や検察に対する信頼がある。警察や検察に対する信頼が完全に破綻すれば、冤罪は許容できない所行となる。同様の根拠で、僕たちは善意でやった医療の結果、望ましくない結果が生じたからと言ってその医療者を刑罰に処することは不当であると訴えている。
 そうすると、ここでの問題は単なるベンサムの功利主義的な理屈を超えた「善意があるかないか」というより道徳、「徳」を考える問題になる。しかし、プラトンが「メノン」でソクラテスに語らせたように、何を持って有徳とするかの判断は極めて難しい。

 では、ネットや雑誌の悪意に満ちた匿名のコメントは何を根拠にして許容されるのか。そのコメントがある人物を名指しで非難している場合はどうか。2ちゃんねるのような場合、あきらかな名誉毀損の場合はIPアドレスなどを特定して警察が匿名性を排除することができる。このことは、「実名をあげて人を罵倒するのに、匿名性を悪用することは許しません」という場合があることを意味している。では、どこまでが匿名による実名の非難・罵倒が許容できて、どこからはできないのか。この線引きは簡単ではないように思う。ただ、線が存在しない、つまり何をやってもかまわない、、、という暴論を支持する人は少ないだろう。警察への「間違った」匿名性のある密告が許容されるのはその「善意」が担保されているからだとすると、このような悪意に満ちたネットや雑誌のコメントは許容できないという理屈にはならないだろうか。
 有名人や権力者はパワーや金を持っているのだから、そのくらいの罵倒は許容しろ、という意見もあるかもしれない。しかし、権力や金を持っているという根拠で懲らしめてもかまわないというナイーブな感覚を許容すると、彼らに対する不当な攻撃が容易に許容されてしまうことを意味する。現に日本ではこのようなナイーブな攻撃は安易に許容される。官僚が萎縮的になって真に重要なプラニングができないのも、このような不当な攻撃を回避するためである。医者が「立ち去ってしまう」のも同様の根拠だ。何かを有しているから攻撃してもかまわないというのは手前勝手な議論である。それが実名であれ、匿名であれ。
 相手が権力者だろうが何だろうが、その名をあげて攻撃をするとき、その攻撃の正当性を担保するのは自分も実名をあげることである。自分だけは安全なところにいて人に石を投げるのを美しい行為とは普通考えないだろう。
 勇気が美徳であることに異論は少ないだろうが、では勇気とは何かというと、パワーがありそれを行使することではない。アリを踏みつぶしてもそれは勇気とは言わない。酒に酔って暴言を吐くのも勇気ではない。自分が苦痛を受けるのを予測の上で、それを十分に認識した上であえてそのような行為に至ることを僕らは勇気と呼ぶ。勇気ある行為とはその人のパワーの有無とは関係なく、むしろパワーのない人物にこそ勇気ある行動のチャンスは大きい。匿名性を確保し、相手に攻撃されないことを承知の上で他人を罵倒するのはもちろん勇気ある行動ではない。その一方向性(ユニラテラリティー)を保証するのはなにか。相手が権力や金を持っていることはユニラテラルな攻撃の根拠とならないことは先に述べた。では、なぜどのような根拠でそれは許容されるのか。

 さて、雑誌の記者はプロフェッショナルである。記事の内容のクレディビリティーが最大限に上がるよう努めるのがプロの本分である。プロの活動において、匿名性はそのクレディビリティーを下げることは先に書いた。医者やナースは実名で診療するし、学者は実名で論文を書く。裁判長は実名で判決を下す。これはプロの営為のクレディビリティーをあげるための工夫だ。ネームプレートもなく、スキー帽とサングラスで顔が見えないようにした医者の診療など(その医者の技量にかかわらず)誰が受けたいと思うだろう。顔も出さず、名前も公表しない裁判官の判決など誰が信頼するだろう。
 匿名性がプロの営為のクレディビリティーを下げるのは明らかである。ということは、メディアにおいて匿名記事を書くということは、その記者は自ら進んで自分の記事のクレディビリティーを下げることに加担していることになる。このような奇妙な行為を何故とるのかというと、「クレディビリティーは犠牲にしてもよいから、要はおもしろおかしくて読者が喜んで(雑誌が売れれば)いいんだよ」という発想に基づいているのではないか。そして、日本のマスメディアが没落し続けているのは、この「内容はだめでもおもしろくて売れればいいんだ」という世界観に支配されてきたからなのではないのか。
 さて、僕は先に「善意に基づいた行為は匿名性を担保するかもしれない」という話をした。しかし、そもそも「善意」はそれを担保する根拠になるのか。善意は善行を保証しない。むしろ善意に満ちた悪行ほど恐ろしいものはない。オウム真理教の信者は善意でサリンを蒔き、多くの国は善意であちこちの国に戦争を仕掛けた。原爆も「戦争を早く終わらせたい」という「善意」で落とされた(とアメリカは主張している)。
 したがって、匿名性を担保するのは善意があるかどうかではなく、それが善行であったかどうかで議論されるべきなのだろうか。しかし、善行は結果論である。これを援用すると医療事故は善行という結果にならないという理由で処罰される。
 善意も善行も絶対的な行動規範にならない。その規範が匿名性をどのように担保するのかは難しい問題である。

 次に無記名投票について考える。無記名投票も匿名性を担保したシステムだ。無記名だから、あとであれこれ言われることもなく、自分の推挙する人物に投票できる。たとえ自分が支持する人が当選しなくても、あとで意趣返しされるリスクもヘッジできる。リスクヘッジ、ここでも功利主義的な原則に基づいている。
 しかし、無記名投票にはそれそのもののリスクもある。自分の投票に責任をとらなくてもよいと担保されているのが無記名投票の(そして匿名性そのものの)特徴だから、いい加減な、無責任な投票を容易にする。あからさまな保身のための投票も正当な一票なら党派性丸出しのダーティ・ポリティックスに走った一票も同様だ。民主党代表選挙でも、ちゃんと国のことを考えて責任をもった票にするならば国会議員は全て自分の票を公開すべきだ、という意見があった。国会議員が投票先を公開しないと言うことは、「俺は国民に対して俺が何を考えているのか、教えるつもりはありませんよ」という意思表示である。それは国会議員に与えられた責任と権利に照らし合わせて、また国民から選ばれて今の自己があるという責任に照らし合わせて、果たして許容される行為なのか、ここは一考を要すると思う。

 このように匿名性については非常に難しい問題だと僕は思う。匿名性が担保されてよい条件は、おそらくある。匿名性が倫理的にもプロフェッショナリズムの観点からも許容できないシチュエーションは、これもおそらくある。どちらとも言い難い微妙なシチュエーションも、やはりある。ここで大切なのは丁寧に各論的にどこがどこに所属するのかを突き詰めることで、信念的に「弱者を守るために匿名性は担保できなくてはならない」「匿名性は常に否定されるべきだ」という安易なスローガンを叫んではならないと言うことだ。どのシチュエーションにおいて誰に対してどのような根拠で匿名性は許容できるのか。これは一般化してはいけない問題なのである。一般化してはいけない問題ということは、安易なアナロジーや極論を使ってはいかん、という意味でもある。

最後まで読んでいただいた方、どうもありがとうございます。

 

MRICに投稿した文章です。

院内感染対策は専門性、総合力、そしてビジョンの問題

岩田健太郎
神戸大学医学部附属病院感染症内科 

 2010年9月9日の産経新聞によると、厚労省は「帝京大病院の多剤耐性アシネトバクターによる院内感染問題や国内で新型の耐性菌が検出されていることを受け」、多剤耐性菌の発生動向把握のための具体策の検討を始めたという。
 厚労省が耐性菌の問題に注目することそのものには、特に問題はない。問題は「発生動向把握」のために策を練るという目的にある。
 我が国の奇妙なところは、何か問題が生じると早急に何らかの対策を立てなければならない、と浮き足だってバタバタと走り出してしまうことにある。感染症対策、高齢者の戸籍問題など、ほとんど全ての問題が同じパターンで、同じ構造で、毎度毎度繰り返される。騒ぎ立て、「何とかしろ」というマスメディアとそれに呼応して政治的に正しく振る舞おうとする政治家が、「早くしろ、対策を立てろ」と急き立てるのである。我が国の官僚は常に多忙であるが、その割に生産性が低いのはこのような脊髄反射的な仕事に追われているためである。
 すでに多剤耐性アシネトバクターは全国の多くの医療機関で検出されていることが分かっている。同等の耐性を持つ緑膿菌も、その他のグラム陰性菌も普遍的に日本中の病院に存在することは我々専門家は「昔から」分かっている。報じられたNDM-1産生菌についても、特に他の耐性菌と本質的に異なったり、対策に違いがあるものではない。つまり、日本の耐性菌問題は何年も何十年も恒常的に継続されている慢性的な問題なのである。慢性的な問題に可及的速やかな対策をとる根拠は二つしかない。メディア対策と政治的自己満足である。そこでは病院の医療者やそのユーザーたる患者の利益はまったく顧慮されていない。
 なぜ、耐性菌の動向を把握するのか。この質問を先日、厚労省結核感染症課の官僚に尋ねたが、「それは耐性菌の状況を把握して情報提供し、耐性菌対策の助けにするためだ」と立て板に水のような「模範解答」が返ってきた。しかし、そのような机上の観念と現実は(他の多くの医療行政がそうであるように)かなりの乖離がある。
 すでに耐性菌の報告システムは日本に存在している。例えば「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(いわゆる感染症法)」では、1999年より耐性緑膿菌の定点報告を義務づけており、その発生動向を調査している(2003年より5類感染症)。
 しかし、この報告が医療現場の助けになることはほとんどない。なぜなら、耐性菌の情報とは「全国がどうなっていますよ」という情報ではなく、「うちの病院ではこうですよ」「私のいる病棟ではこうですよ」という情報こそが大切だからだ。こういう情報を我々はローカルな情報と呼ぶ。だから多くの病院では「アンチバイオグラム(病院や病棟における耐性菌情報)」を作成して、実地診療に役立てている。
 では、行政として耐性菌の発生動向を把握する意味はないかというとそんなことはない。多剤耐性緑膿菌(MDRP)は日本で承認されている抗菌薬が全く効かない耐性菌である。したがって、その発生動向を調査すれば日本でこの菌が普遍的に検出されているリアルな問題であることが即座に理解できる。もし耐性菌情報を現場の医療に活かそうと官僚が本気で考えているのなら、「これではいかん」とMDRPの治療薬の緊急承認や普及に尽力を尽くすのが筋であろう。
 しかし、厚労省はこれまで「耐性菌対策と医薬品承認・審査は担当が違う」「製薬メーカーから申請が来ていない」という誠に「官僚的な」言い訳で知らんぷりを決め込んでいた。対策もとらず、ただ病原体を届け出させて数を数えているのなら、これは子どもの夏休みの絵日記と同じである。「今日はとんぼを2匹見つけました」と日記に書くのと構造的に同じだ。
 得られた情報に呼応する対策が講じられない限り、病原体の「届け出」には意味がない。それは「対策をとっていますよ」というポーズ、アリバイ作りにしかならない。あるいは研究者の研究材料にしかならない。現場の医療者は、そして患者はひとつも得をしないのである。
 感染症対策の先進国であるオランダでも届け出感染症は存在する。ただし、「届け出することで対策をとり、公衆衛生的な介入をかけ、そして減らすことが可能な」感染症のみが届け出義務を有している。しかも、多忙な医療者の便宜を図り、報告は電話でもファックスでもメールでもOKである。これに対し、日本の感染症では多くの場合、「届けて何をするか不明瞭な感染症に」報告義務を課している。例えば、「急性ウイルス肝炎」には届け出義務があるが、急性肝炎を報告しても肝炎は絶対に減らない。もしウイルス性肝炎を本気で減らしたいのであればキャリア(ウイルスを有するが症状のない場合)の数を調べなければならないのだ。日本の届け出用紙は記載事項が多く、これも現場の医師には評判が悪い。デング熱の届け出をするのにどうして患者の住所や氏名が必要なのか。ヒトーヒト感染をしないデング熱の場合、発生数さえ把握できていれば感染対策上問題はない。感染対策を何故やるのか、という根源的な理由を理解しないまま多くの保健所は「報告を受けたので」という理由で患者の家に電話をかけて「情報収集に」あたっている。対策に寄与しない不要な個人情報の漏洩である。
 このように、日本では感染症発生動向把握に対するビジョンやプリンシプル(原則)がないのである。動向を把握してどうしたいのだ?という目標がないのである。ただ場当たり的にメディアに呼応し、それを報告させて対策をとっているふりをする。これが重なって現場はますます疲弊するという構造である。
 繰り返すが、日本の耐性菌問題は昨日今日起きた緊急の問題では決してない。長い間、我々専門家が必死で取り組んできた慢性的な問題である。プロが長い間取っ組み合ってきた問題であるということは、この問題に「イージーなソリューション(解決策)が存在しない」ことを明白に示唆している。イージーなソリューションがない問題に、安直な届出制度を作ることで「解決してしまったふり」をしてはならない。
 耐性菌の問題は、耐性菌の数を数えたからといって解決するわけではない。検査の方法、日常の抗菌薬の適正使用、病棟における感染対策、そして耐性菌感染症の治療戦略など、たくさんの施策を重層的に駆使して対策する。病院の総合力が大切なのである。ならば厚労省がもっとも心を砕くべきは病院の総合力アップのための施策である。それは病院で感染症のプロがフルタイムでコミットしやすい施策であり、病棟が安全に運用されるための施策であり、抗菌薬が適正に使用される施策でもある。
 一方、病院は「耐性菌対策のため」に存在するわけではない。過剰な耐性菌対策はコストもかかるし日常診療を圧迫する。日常診療を円滑に進めつつ、適切な感染症対策を継続する「塩梅」が大事になる。塩梅、微調整が必要となる問題については専門家がよくよく現場を俯瞰して、その場その場の「妥当な振る舞い」を決めなければならない。中央が一意的に計画書をたてるような対策法は、「塩梅」の重要な院内感染対策にはそぐわない。ことあるごとに厚労省や保健所が調査に入るような「労多くて益少ない」対策だけはごめん被りたい。
 厚労省は何も慌てる必要はない。時間をかけるべきである。まずは多種多様な感染症の専門家の意見をじっくりと時間をかけて聞いてほしい。そしてなによりもまず最初に、我々はどのような院内感染のあり方を目指しているのか、ビジョンを明確にすべきである。病院が病院である限り院内感染はなくならない。なくならない、という前提でどこまでの対応が妥当なのか「塩梅」探しの模索をすることこそがビジョンの追求である

めずらしくコメントにコメント

集中という雑誌は立派なメディアであり、社会的に力がないとは考えづらい。役所が権力を発動して取材の妨害をする?とかいうシナリオはあると仮定しても、それは「集中」取材お断りになるので、個人の記者がどうこう言う問題ではない。匿名性を擁護するあまりに論理破綻が起きている。

多くのプロの社会では実名をあげるのは常識だ。学術界では「匿名」の論文は絶対に採用されない。医者が「匿名」で患者を診療することなどありえない。たとえモンスターペイシェントに攻撃されようと(そういう意味ではとても弱い立場にいるんだけど)、その点は譲れない。匿名性そのものが内容のクレディビリティーを下げるからである。同様の理由で新聞記事も多くの国では署名記事が常識である。匿名性を許容しないソサエティーなどそれこそたくさんあるのだ。それを狭量というのであれば狭量かもしれない。しかし、プロの世界はこのような制約くらいは乗り越えなさいよ、という厳しい世界である。

しつこいようだが、僕は匿名の全てを否定していない。「とにかく匿名はけしからん」と言っているようにしか見えないのです、、、と言われても知りません。アマチュアの世界ではOKです。もう一度文章をよく読んでくださいね。

プロの世界では実名が常識だよ、と申し上げているだけだ。医者はプロである。官僚もプロである。ジャーナリストもプロである。プロはプロとして最低限のルールとモラルを守る義務がある。寛大な社会とはなんでもありの社会とは違う。プロの物書きが実名をあげて官僚を非難するのに、自分は名前を出さないという品のなさを「弱い立場なのだから」と許容する理由はない。

小児における血液培養

・3歳以下では菌血症の頻度が高く、適応は高い。
・感染巣が明確でないことが多く、その場合にも必要。
・小児における血液培養の適正な血液量とセット数
       総血液量ml  採血量ml セット数 総採血量ml 採血量/総血液量の割合(%)

体重1kg以下50−99   2       1     2        4
1.1−2    100−200 2       2     4        4
2.1-12.7    >200    3?     2     6        3
12.8-36.3   >800    10      2     20       2.5
>36.3kg   >2200   20      2      40      1.8

ポイントは、血液培養は体重1kg以下でも必要なこと、1.1キロあれば2セット必要なこと、36.3kgより大きければ大人と同じ採血量(40ml)なことである。
・採血量が小さい場合、嫌気ボトルは必要ないことが多い。
・例外は、口腔内感染、慢性副鼻腔炎、脳膿瘍、ヒト咬傷、レミエール症候群、腹腔内感染、肛門周囲の蜂窩織炎、潰瘍、ステロイド高容量服用中の好中球減少時発熱(腹部所見がマスクされるリスクあり)、前期破水18時間以上、母胎絨毛羊膜炎。
・抗菌薬が入る前に2セット。1セットとって抗菌薬入れて、次の日もう1セットはダメ。

参考 齋藤昭彦 ONE POINT MEMO 臨床検査ひとくちメモ モダンメディア 56巻4号 2010

神戸大学感染症内科短期研修の感想

高知大学の荒川先生(感染制御部の荒川教授の息子にあらず)からです。丁寧な報告、ありがとうございました。

http://www.medical-bridge.jp/voice.html?tvid=12820103918967

みなさんも是非ご参加ください。いくつか事業があります(仕分けられなければ)。それ以外の地域からも、研修は可能です。ご相談ください。

http://www.medical-bridge.jp/index.html
http://www.gp-renkei.jp/

レヴィナスの「倫理と無限」と内田樹さんの民主主義

私が言いたかったことは、次の一文に集約される。
「法理と現実のあいだの乖離を埋めることができるのは固有名を名乗る人間がその『生身』を供物として差し出す場合だけである。」

内田樹さんのブログが今まさにこのようにおっしゃっている。まるでどこかで見ていたみたい。

レヴィナスの本のなかで一番読みやすかろう「倫理と無限」を読んでいる。他者の責任に対する有責性がこれほど分かりやすく理解できたことはかつてなかった。いい心持ちの時に、いい本と出会えたものだ。自分が顔(あるいは名前)を見た人の責任に対する責任。相変わらずよく理解できていないが、胸にすっと落ちることは、落ちた。

日本における医療の問題(そしてその他の問題も、たぶん)の一番大きなところは、固有名を名乗る人間がその生身を差し出し、他者のもつ責任に対して責任をとる、という大人の態度をとれず、矜恃を示せないためである。繰り返すが、僕は本ブログでの匿名コメントを否定しない。ただ、それらのコメントは「素人さん」からの、観客席からの、外野からのコメントとして認識されるだけで、有責性を引き受けるプロの言葉とは認識しない、ただそれだけの話である。

匿名性という見解

ほとんどその他すべてにおいてもそうだが、僕は「例外なくすべてのシチュエーションにおいて絶対に」そうでなければならない、という主張を慎重に排除している。およそ臨床屋である限り、例外のない事象はほぼ皆無である。Never say neverといわれる所以である。

したがって、ここでも「何でもかんでも」匿名がけしからん、と申し上げているのではない。「集中」という雑誌の小論を署名なしで書くのはよくない、と申し上げている。

読めば分かるが、本誌はかなり直截な物言いをする雑誌である。そこが魅力ではあるが、逆にかなり「個人非難、個人批判」と読める書き方をしている。厚労省のなにがしは会議で昼寝ばかりしている、とかゴルフバッグをもってよいしょしながら出世したとか、「ほんまかいな?」と疑問詞をつけるべき記載が多い。

そのような直截な物言いが許容されるほぼ唯一の担保は実名で記事を書くことである。そうでなければ、このような内容はほとんど便所の落書きと区別がつかないではないか。本名をあげて官僚なにがしを非難するのであれば、自らも本名をあげて、「俺の魂書けて書いた記事だ、文句あるか」と言えばよいのである。それがいやならば、「厚労省の某氏は昼寝ばかりして、、、」とむにゃむにゃした記事にして、多少の魅力を減じてもリスクヘッジをするよりほかない。大人の仕事だ。他人を実名で非難するならば、それなりの覚悟を決めるべきだ。自分だけリスク回避するってのはないと思うな。

ついでに言うと、「匿名の排除」が硬直した社会をうむ、あるいは匿名性の担保が硬直化を防ぐ、という根拠が僕には理解できない。多くの硬直化に導く緒論は匿名からきている。コンプライアンスだのなんだので各部門の規則規制が増え、組織が硬直化していくきっかけはたいてい、匿名の内部告発、たれ込みが端緒になる。匿名化の担保は社会の硬直化を防ぐ手立てにはならない。むしろ、匿名性を強要するそのバックグラウンドのシステムとか雰囲気とか、そういうもののほうに問題があるのではないか。

集中Medical Confidential

集中という雑誌がある。これがかなりおもしろい。ほとんどタブーとされてきた医療界の内情を赤裸々に取材し、独自の視点で切っている。ウェブサイトには病院経営者のための、と銘打っているが、すべての医療関係者にとってとても有益な情報源だと思う。

正直、こういう領域は好悪の両感情が混在する。僕の感情としてはポリティクスは好きではない。自身、大学の職員としてそういうものには心底辟易している。とはいえ、こういう世界観で動いている人が、ときにはそういう世界観「だけで」動く人が多いこともまた事実で、このダークワールドを知らんぷりにするわけにもいかない。知らんぷりをしていても、例のアシネトバクターやドラッグラグやインフルエンザや諸々の問題も闇の中だ。

記事の内容は実にオリジナルで、製薬メーカーや厚労省への鋭い突っ込みもマスメディアの比ではない。それだけに記事の妥当性には十分な検証が必要なのだが、署名記事でなく、匿名なのが気になる。

糖尿病の勉強しなおし

外来で診ている患者で、血糖が高いということでネシーナが使われているという。

「ネシーナ?シラネーナ、、、、」

とバカなことをいっていると後ろに控えていた5年生が
「先生、DPP IV阻害薬です」
なんだっけ。と薬の本を調べても載っていない。今年発売になったばかりだという。

これは新しいケアネットのDVDでも買って勉強し直そうかと思っていたら、偶然開いた「メディカル朝日」9月号にインクレチン関連新薬の特集が載っていた。数年前アメリカの学会でちょろっと聞いた話だがすっかり忘れていた。リアルな患者さんが絡むととたんにやる気が出る。丁寧に読む。

なるほど、薬の話はよく分かった。DPP IV阻害薬はGIP, GLP-1の分解酵素の阻害薬だ。

ただ、使い方はよく分からない。

薬の説明をするのと、薬の使い方を説明するのは同じではない、、、と村川先生の連載を読んで思った次第。

あと、「病名で投与する漢方 証で投与する漢方」もおもしろかったです。こういう総合医学雑誌はゲリラ的でおもしろいですね。

白血病患者にでてくる胸部浸潤影の原因

これも臨床的。少し難しかったですね。「20100913140701.pdf」をダウンロード

好酸球増多の原因

これもベタだけど、やっていて損はないプラクティス「20100913140544.pdf」をダウンロード

両側下腿浮腫、片側下腿浮腫の原因

これも医者になってから役に立つよ。でも、ご希望の診療科ではそうでもないかも、、、、「20100913140456.pdf」をダウンロード

クリンダマイシンについて

こういうのも学生のうちにしっかりまとめておけば、あとであれこれ忘れてもすぐ取り戻せる。他の薬に対する応用も利く。A4一枚にまとめるのが肝心で、ダラダラ教科書を写していると分からなくなる。「20100913140127.pdf」をダウンロード

意識障害のアプローチ

基本的だけど、こういう手作業を学生のうちにやっておくと将来役に立ちますよ。学生実習は医者になったときに役に立つこと「だけ」をやるべきだ。「20100913135916.pdf」をダウンロード

硬膜外膿瘍と解剖

「20100913135746.pdf」をダウンロード 実際の症例から膿瘍の解剖学的位置について検討してもらう。こういうのは文献をひいても答えが出せないから、苦労するよね。ご苦労様。

意識障害とバイタルサイン(池田論文まとめ)

論文を要約するとはどういうことか理解されていなかったので、ACPジャーナルクラブのようにやってごらんといったら本当にやってきた。しかも英語で。偉い偉い。

こういうのは模倣を繰り返すほうが上達しやすい。最初は真似で良いのです。「20100913135342.pdf」をダウンロード

谷啓さんを偲ぶ

クレイジーキャッツとかドリフターズとか大好きで、谷さんっていい味出していました。僕がテレビを好きだったころの代表的な人です。

最近では、「美の壺」が好きでした。あとで草刈さんにバトンタッチしましたが、土曜の早朝、出張先で身支度しながらこの番組を見るのが好きでした。

https://www.nhk-ondemand.jp/program/P200800020200000/index.html

今週はいろいろなことがありましたが、このニュースが個人的には一番ショックです(アシネトバクターなんて相対的にはどうでもよいのです。今大騒ぎする問題ではない。ペイオフは関係ないし、選挙は理解できない)。ご冥福をお祈りいたします。

速報INFECTION CONTROLにアップしました。

http://www.medica.co.jp/magazine/view?id=1981

ちと小さくて見づらいですが、右側にクリックする場所があります。

http://www.medica.co.jp/index

からも見ることが。

掲載は(19巻(2010年)11月号)です。ぜひ「買って」読んでくださいね。こうしてGoogleやLinuxにあるFREE marketの原則が医療の世界にも導入されるのであった、、、かな?

何人いれば適切か

感染症学会は300床以上の1500の病院の存在を考え、感染症専門医は3000−4000人必要と考えている。

http://www.kansensho.or.jp/senmoni/info/14.html

現在、兵庫県には26人、島根県は5人、茨城県は2人しかいない。

http://www.kansensho.or.jp/senmoni/meibo.html

病院感染管理の主役である感染管理看護師ICNは全国で1100程度しかいない。

日本環境感染学会の認める「教育施設」の基準は以下のとおり。これをみると、常勤ドクター(ICDでOK)は1名いれば必要条件は満たせている。

  1. ICDの資格を持つ日本環境感染学会員が常勤職員で1名以上いること

病院機能評価バージョン6では、委員会や講義やマニュアルの規定はあるが、専任の感染管理専門家が何人必要かの明記はない。

僕の知る限り、厚労省にも適切な感染対策者の人数設定はない(まちがっていたら教えてください)。東京都も今年査察したはずだから感染管理者の数は把握していたはずだ。

適切な人数がおらず、適切な人数が設定されていない。人数を確保しようにも財源はなく、感染管理に従事する職員を増やすことにたいするインセンティブ(診療報酬)もない。この惨状が日常である。このような事項は日常において議論すべきなのだが、どうにもこの国は、メディアが騒ぐようなアウトライヤー的事件が起きないと議論しない。議論の構造が根本的に間違っているのである。

潮の流れが変わりつつある。

メディアの論調に変化が生じている。明らかな変化だ。ミドルメディアがマスメディアに影響を及ぼすという新しい流れだ。やはり「世の中こんなもの」とあきらめてはいけない。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100909-00000002-maiall-soci

毎日新聞 9月9日
引用はじめ
「 帝京大病院の対応について厚労省の担当者は「専任職員といっても、どの程度機能していたかは今後の調査次第。医療機関ごとに相当意識の差がある可能性もある。行政への届け出の遅れは、感染症法の報告義務対象になっていなかったからではないか」とみる。

 同法では、バンコマイシン耐性黄色ブドウ球菌など5種類の耐性菌について発生時の報告を義務づけているが、アシネトバクターは対象外だった。このため長 妻昭厚労相は独協医大病院で国内初確認された「NDM1」も含め、届け出対象に含めるか検討を指示した。新しい耐性菌の広がりを把握するため、全国的な調 査に乗り出す方針も固めた。

 感染症専門医の少なさなど、欧米に比べ遅れが指摘されていた日本の院内感染対策。長妻厚労相は7日の会見で「専門家の意見も聞きながら実態把握を進め、これを機に対策を徹底したい」と語った」引用終わり

伊藤隼也氏のレポートも

http://www.bunshun.co.jp/mag/shukanbunshun/

この流れはおそらくもう止まらないだろう。

http://twitter.com/kenichiromogi/statuses/23958122759

http://www.amazon.co.jp/%E8%A1%97%E5%A0%B4%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E8%AB%96-%E5%85%89%E6%96%87%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%86%85%E7%94%B0-%E6%A8%B9/dp/4334035779/ref=ntt_at_ep_dpt_1

アシネトバクター感染症治療法(総説)

http://www.journals.uchicago.edu/doi/abs/10.1086/653120

こんなのがあると教えてもらいました。投与量も書いてあってわかりやすいですが、エビデンスには乏しいです。

ICTの知っておきたい多剤耐性アシネトバクター

メディカ出版INFECTION CONTROLに依頼された原稿です。ご好意で今回特別にブログに掲載を許可していただきました。メディカ出版さんの寛容なるご判断にこの場を借りて感謝申し上げます。というわけでみなさん雑誌も買って読んでくださいね。転載自由です。

http://www.medica.co.jp/magazine/view?id=1981


ICTの知っておきたい多剤耐性アシネトバクター

 

岩田健太郎1、阿部泰尚2、八幡眞理子2、吉田弘之2、李宗子2、荒川創一2

 

1.神戸大学病院感染症内科

2.神戸大学病院感染制御部

 

 アシネトバクター(Acinetobacter) 属はブドウ糖非発酵のグラム陰性桿菌です。広く自然界に存在すると考えられていますが(異論もある)、特に病院内環境で見つかることが多いとされています。床、病室のカーテンなどの環境や人工呼吸器、除細動器といった医療機器、医療者の皮膚や便からも分離されることがあります。医療者の手を介して院内伝播することもありますが、健常市民から本菌を検出することは比較的少ないことがわかっています。アシネトバクター属にはいろいろな種類がありますが、特に人に感染症を起こしやすいのはAcinetobacter baumanniiです。

 アシネトバクターの市中感染は東南アジアのような赤道周辺の国などで確認されることがありますが、我が国ではまれです。つまり、本菌感染は日本ではほとんどは(急性期病院の)医療関連感染として認められます。ただし、院内でアシネトバクターを分離したとしても、多くの場合は定着(コロナイゼーション)や汚染(コンタミネーション)です。つまり本菌が分離されたとしても必ずしも治療する必要はないので、臨床的な治療要非の吟味が重要になります。

 このように本菌が感染症を起こす懸念は高くないのですが、ひとたび発症すると重症化しやすいのが特徴です。人工呼吸器関連肺炎(VAP)、血流感染(BSI)が特に多く、その死亡率はある報告では50%程度とかなり高いようです(Dijkshoornら)。その他、本菌により皮膚軟部組織感染症、尿路感染症、外傷後や術後の創部感染、二次性髄膜炎など様々なタイプの院内感染を起こすことが知られています。アシネトバクター感染症はICUなどの重症患者のいる病棟に発生することが多く、特にカテーテルなどデバイスが種々挿入されている患者、多種抗菌薬投与歴のある患者などがハイリスクです。

 多剤耐性アシネトバクター(以下、MDR-AB)を定義する世界的な基準は示されていませんが、日本では(これも我が国独自に定義した)多剤耐性緑膿菌に準じてカルバペネム、アミノグリコシド、そしてフルオロキノロンの3系統の抗菌薬に耐性を示すものを指すことが多いといえます。アメリカなどでは汎耐性アシネトバクター(panresistant Acinetobacter)という用語が使われることもあります。

 本耐性菌は1990年代前半からアメリカなど各国で問題になっていましたが、日本では見つかっていませんでした。しかし平成21年(2009年)1月に福岡の大学病院で、その後東京都の大学病院でもMDR-ABが分離され、にわかに注目を集めるようになりました。

 アシネトバクターはペニシリンや第一世代、第二世代のセファロスポリンには自然耐性がありますが、しばしばその他のβラクタム、アミノグリコシド、フルオロキノロン、テトラサイクリンなどにも耐性を獲得しています。また、メタロ・β−ラクタマーゼを含む多様なβ−ラクタマーゼを産生する本菌も見つかっていますし、β−ラクタマーゼ産生以外の耐性機序を持つことも多く、様々な抗菌薬に対して同時耐性を示すことがあります。ただし、その耐性メカニズムについてはまだ不明な点も多いといわれています。最近ではポリミキシン(ポリミキシンB、コリスチン)やチゲサイクリン耐性菌も見つかっています。

 上述したようにアシネトバクター感染症は重症化することが多く、この菌の治療については(耐性の程度にかかわらず)、感染症の専門家が参加するのが望ましいと考えます。

 アシネトバクター感染症の治療は、もし感受性があればアンピシリン・スルバクタム(アシネトバクターに対してはスルバクタムの抗菌効果が高い)、アンピシリン・スルバクタム耐性であればカルバペネムなどを最大量用います。

 

治療例(成人、腎機能正常な場合)

アンピシリン・スルバクタム 点滴静注 1回3g 1日4回  14日間

上記薬剤に耐性時

メロペネム 点滴静注 1回1−2g 1日3回 14日間

 

 実際にはMDR-ABの場合、日本における既存の抗菌薬がすべて効かない可能性が高いと云わざるをえません。未承認薬(本稿執筆時点)であるポリミキシン(ポリミキシンBおよびコリスチン=ポリミキシンE)やチゲサイクリンを本菌に用いることが多いのですが、チゲサイクリンは治療途中で耐性獲得した例もある上に、本菌に対する臨床治験が十分ではありません。コリスチンなどのポリミキシンは本菌感染症に対する実績がありますが、腎不全などの合併症が懸念されます。ただし、以前言われていたほどこの合併症は多くないことが近年の研究で明らかになってきています。神戸大学病院感染症内科では海外から輸入したポリミキシンBをアシネトバクターやその他の多剤耐性グラム陰性菌感染症の治療に用いています(下記参照)。その他、イミペネム・シラスタチンとアミカシン、コリスチンとリファンピンといった併用療法も提唱されていますが、データに乏しいのが現状です。

 

 感染管理については国際的に合意された方法があるわけではありません。病院の規模や患者数によっても対応法は異なるでしょう。以下は筆者の私見です。

 まず、MDR-ABでない、すなわち感受性のよいアシネトバクターについては標準予防策以上の特殊な感染対策は必要ないと考えます。

 MDR-ABの場合、感染の有無にかかわらず1回でも患者から分離されたら速やかに厳重な感染対策を行うべきと考えます。厳密な標準予防策および接触感染予防策を適用し、可能であれば個室管理とします。空気感染予防策までを示唆する専門家もいますが、この必要性は明確ではありません。筆者(岩田)が米国で本菌感染症を経験した際は病棟の一時閉鎖をする非常に強い対策をとりましたが、通常医療の維持とのバランスを考え、どうしても必要な場合にそのような対策も検討します。医療器具(聴診器やモニターなど)はその患者専用とし、退室後はデバイス、部屋共にアルコールなどで消毒するべきです。次亜塩素酸の使用を示唆する研究もあります(Dentonら)。

 急性期病院では。複数の患者からMDR-ABが検出されたら周辺患者の保菌の有無を、咽頭スワブ、肛門スワブおよび尿の培養により調査するアクティブ・サーベイランスや環境の拭き取り培養などを行い、感染経路や拡大範囲の精査を行います。

 MDR-ABの除菌は極めて困難と考えられます。アシネトバクターそのものは健康人には重篤な感染症を起こす懸念は低いため退院先、そしてそれが自宅でなく長期療養施設などであっても特殊な感染対策をとる必要はないと考えます。これを理由に受け入れ拒否をする必要はありません。

 MDR-ABは本稿執筆時点で感染症法の規定する届け出義務のある病原体ではありません。しかし、平成21年の厚生労働省の通知により保健所への届け出が依頼されているため、本菌を分離した場合に医療機関は速やかに保健所に届け出るのが妥当であると考えます。同様に、社会に公表するかどうかも医療機関執行部や保健所と協議して状況により判断すべきです。公表には大きくホームページ上の公報と記者会見という二つの方法がありますが、多剤耐性菌の出現や医療関連感染そのものは医療という営為の中で完全には避けられない事象ですから、特に明らかな過失等の理由がない場合、安易に謝罪しないことが重要です(記者会見については参考文献の松村らを参照)。

 最大の耐性菌対策は未然の予防です。カルバペネムの過剰使用が耐性アシネトバクターの増加に間与していることを示唆する報告もあり(Go ら)、アシネトバクター感染症の貴重な治療薬であるカルバペネムを乱用しないことも重要な対策です。

 比較的乾燥に強い本菌について、オランダの感染管理専門家であるテア・ダーハ女史は「アシネトバクターはグラム陽性菌のようにふるまうグラム陰性菌であり、広がるのに速く、取り除くのに難しく、患者の予後は厳しく、とくに免疫抑制のある患者ではそうである」と称しました。MDR-AB対策は本質的に難しく、簡単で一意的な解決策はありません。普段から細菌検査室、感染管理チーム(ICT)、病院長などの執行部、そして各科診療医や看護師等が普段から十分なコミュニケーションをとり、耐性菌が分離されたときに速やかに適切な対応がとれる体制と人間関係を構築しておくことが肝要です。

 

 本稿はその性質上早期の情報提供を念頭に作成しました。時間の関係等からその内容は筆者の私見であり、神戸大学病院あるいは神戸大学の公式見解ではありません。

 

参考文献

 

Dijkshoorn L, Nemec A, and Seifert H. An increasing threat in hospitals: multidrug-resistant Acinetobacter baumannii. Nat Rev Microbiol. 2007 ;5:939-51.

 

Go ES, Urban C, Burns J et al. Clinical and molecular epidemiology of acinetobacter infections sensitive only to polymyxin B and sulbactam. Lancet. 1994 ;344:1329-32.

 

Bernards AT, Frénay HM, Lim BT et al. Methicillin-resistant Staphylococcus aureus and Acinetobacter baumannii: an unexpected difference in epidemiologic behavior.Am J Infect Control. 1998 ;26:544-51.

 

Maragakis LL and Perl TM. Acinetobacter baumannii: Epidemiology, Antimicrobial Resistance, and Treatment Options. Clinical Infectious Diseases 2008;46:125463

 

Denton M, Wilcox MH, Parnell P et al. Role of environmental cleaning in controlling an outbreak of Acinetobacter baumannii on a neurosurgical intensive care unit. J Hosp Infect. 2004 ;56:106-10.

 

 

アシネトバクター感染症について 横浜市衛生研究所 http://www.city.yokohama.jp/me/kenkou/eiken/idsc/disease/acinetobacter1.html

 

舘田 一博 多剤耐性アシネトバクターについて 日本感染症学会 http://www.kansensho.or.jp/topics/100907acinetobacter-2.html

 

松村理司ら 地域医療は再生する 病院総合医の可能性とその教育・研修 医学書院 2010

 

参考

 

神戸大学病院感染症内科が入手しているポリミキシンB使用までのプロセス

 

1.臨床研究として倫理委員会に申請、許可を得る。

2.業者を通じて輸入(RHC http://www.rhc-net.com/)。購入には研究費を使用。

3.患者発生時、患者もしくはその家族に未承認薬であることや副作用情報、有害事象発生時の補償がないことなどを伝え、文書で同意を得て使用。研究の一環として抗菌薬は無料で患者に提供。

 

http://www.med.kobe-u.ac.jp/ke2bai/contents/kenkyu/index.html

 

本日のMGH

http://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMcpc1000968

プレゼンは咀嚼して自分の言葉でしゃべらなければならない、単なる翻訳、朗読ではだめ、という話をした話

オランダからの見解

今回のアシネトバクター騒ぎはPromedという国際的なメーリングリストにも掲載されている。世界で一番感染管理が進歩的なオランダの感染管理専門家のテア・ダーハさんに、院内感染に警察の捜査が入ることについて意見を聞いた。許可を得てここに掲載する(訳は岩田)。ちなみにオランダの厚生省がおこなう感染症対策の病院監査は数年担当してますよ、のなんちゃって担当者ではなく、この道20年以上の超プロフェッショナルが行う。しかも、その仕事は病院を罰することではなく、問題を把握して支援するためのものである。感染対策先進国のオランダと日本では、本質的に問題解決における思考の基盤が異なっているのである。

岩田さんへ

ProMedへの投稿とあなたの多剤耐性アシネトバクターと警察捜査に関するメールを強い警戒心をもって読みました。何年もの間、多剤耐性アシネトバクターは世界中の病院で問題となっており、ある施設がアウトブレイクに遭ったとき、これこそもっとも止めることの難しいアウトブレイクです。ここオランダでも何度かアウトブレイクがありましたが、これを止めるのに時に何年もかかったものでした。業務上の過失のせいなどでは決してなく、これこそがこの菌の性質なのです。よく言われるように、アシネトバクターはグラム陽性菌のようにふるまうグラム陰性菌であり、広がるのに速く、取り除くのに難しく、患者の予後は厳しく、とくに免疫抑制のある患者ではそうなのです。プロとして申し上げると、私には警察が刑事罰を念頭に操作を始めたということが理解できません。オランダでも、私たちは今の日本のような状態に直面してきましたが、あるケースにおいては陸軍がこのアウトブレイクを制圧するのに協力してくれ、これはうまくいきました。アシネトバクターのアウトブレイクは理解するのに難しいものです。我々のようなプロにとってもそうであり、感染制御が専門の医療従事者でなければ言うに及びません。もし警察のすることがあるとすれば、それは支援であり、この問題を解決するために医療者を助けることであり、刑事罰を念頭に置いた捜査をすることではないのです。

院内のコミュニケーション 己のことばかり考える奴は

一言で感染症といっても、看護、検査、治療など様々なセクションがそれぞれの職域で感染対策をしている。しかし、すべてのセクションがお互いに密にコミュニケーションをとり、信頼関係を保ち、情報共有をし、協力し、そして同じ方向を向いて動かなければどんなに各セクションのエキスパティースが高くてもうまくいかない。

残念ながら日本の大学病院は一般的にセクショナリズムが強く、このような基本的な部分がうまくいっていないことが少なくない。

ある大学病院では優秀な准教授を嫌った教授が、「あいつの診療には一切協力するな」と他の部下に命令して、診療や感染対策妨害をしている。

ある大学病院では感染症の専門家に対して検査室が立ち入り禁止令を出している。これでは耐性菌が分離されても対策がとれるわけがない。

念のため、うち(神戸)のことじゃありませんよ。もちろん、僕のことでもないです。

こんな幼稚園児みたいな愚かなことを本当に大学病院でやっているの?と思うでしょう。

大学病院の職員は、自分が誰のために働いているのかを真剣に問い直す必要がある。それはもちろん病院のためであり、患者のためである。自分や自分のセクションのことばかり考え、他のセクションに非協力的だったり、ましてや妨害活動を行うような輩は、大学病院から即刻立ち去るべきなのである。そういう人は、どんなに知識があろうと学問的な業績があろうと、感染症に(そして臨床に)携わる資格がない。

いいか!戦とはそういうものだ!人を守ってこそ自分も守れる!
己のことばかり考える奴は己をも滅ぼす奴だ!!(「七人の侍」より)

あわててはいけない

昨日、厚労省結核感染症課に電話したが、ものすごく忙しそうである。アシネトバクター対策で夜中まで缶詰になっているのかもしれない。

これはとても奇異なことである。現在、オンゴーイングで感染が広がっているわけではない。「今慌てて」何かをやる必要は一つもない。ここでやっつけ仕事でへんてこなアシネトバクター報告システムとか作られたら、現場の迷惑はこの上ない。政治家の一時の感情とか、メディアの醸し出す空気とかでこういうものを決めてはいけない。絶対にいけない。

結核感染症課の担当者には以下のことを申し上げた(もっとも院内感染は病院マターなので別の部署が担当なのだそうだが、、、、菌は結核感染症課、感染症は別の人って、、、、と嘆じたら「それは肉屋で野菜を売れというものです」と屁理屈を言われた)。

院内の耐性菌を届け出るからには、なぜ、何のために届けるのかをしっかり決めなければならない。建前上はみなさんは情報を収集して情報を公開すると現場がよくなったり感染症が減る一助になるとおっしゃるが、それは机上の空論に過ぎない。耐性菌の情報は「その病院」の耐性菌情報が大事なので、「一般的にはこうなっています」という情報はほとんど役に立たない。私の病院のアンチバイオグラムが大事なのだ。開業医や診療所にとっても病院内耐性菌の情報はほとんど役に立たない。

オランダの届け出感染症は目的が明確で「届け出ることで減らすことができる、減らすべき感染症」が届け出義務になっている。届け出と対策が直接リンクしている。日本の場合、デング熱を報告してもツツガムシを報告しても急性肝炎を報告しても、その病気が減るということはない。情報収集と対策が直接リンクしていないからだ(間接的にはあるけれど)。「何のために」という問いが出されないまま、形や整合性や文体ばかり気にしているからだ。

微生物学者などの専門家にこのようなマターを相談するとまずとりあえず届け出させてデータを集めて、という発想になる。しかし、データが欲しいのは専門家であって、ユーザー(医療者)ではないこともある。よくよく考えて欲しい。届け出ると何が起きるのか?こういう根源的な議論がないままにやっつけ仕事をしてメディアや大臣の前でアリバイ工作はしないで欲しい。

最後の一文は胸の奥で自分につぶやいただけだが、こういうことを申し上げた。

繰り返すが、今何かが緊急に起きているわけではなく、慌てて徹夜仕事をして「対策をとっている」ポーズをとる必要はない。急ぐべきはコリスチンの承認くらいなものだ。腰を据えて、じっくり考えて、いろいろな人の意見を聞いて、届け出感染症の持つ意味をよくよく考えてみるべきだ。

悪質な報道許さぬ態度を (べつに処分はいらないが)

今度出すワクチンの本の一部をここに紹介する。

「このような難しい問題に簡単な、単純なソリューションを提供しようと試みるのがいわゆるマスメディア、とくに新聞とテレビだと僕は思います。予防接種の問題は複雑で難しい問題なのにもかかわらず、マスメディアの世界では議論は矮小化され、単純化され、わかりやすい「物語」と化しています。例えば、「ある被害が起きた場合はそこに加害者がいなければならない」という勧善懲悪の「物語」です。
 後述する京都・島根のジフテリア事件、1948年に起きたジフテリアのトキソイドによる死亡者が多発した事件で、同年11月10日の朝日新聞は「責任の追及は第一である」と報じています。問題の原因究明よりも責任の追及を第一義的な目標にしてしまっている。これは「かわいそうなワクチン副作用の被害者にかわって俺たちが悪い奴らを(どこかに設定して)懲らしめてやる」という話法です。なぜワクチンによる被害が起きたのか、どうやったら同じような被害が将来起きることを回避できるのか。朝日新聞の文章にはそのような建設的な議論がありません。ただ、悪者を見つけてこらしめて、溜飲を下げるという安っぽい時代劇のような鼻息の荒さだけがそこにある」

 昨日、朝日の記者さんとお話をしていて、1948年の朝日の報道の話をした。「戦後間もないマスメディアはこのくらい幼稚でした。何かあると原因究明や実態の把握の前にとりあえず加害者を捜して攻撃する、という幼稚な英雄気取りです。それに比べれば今のメディアはまだましかもしれませんね」

残念なことに、僕の見込みは甘かった。マスメディアは昭和20年代から少しも成長していない。以下は産経新聞。署名はない。

引用はじめ
【主張】院内感染 悪質な隠蔽許さぬ処分を
2010.9.7 02:43
このニュースのトピックス:主張

 帝京大病院(東京都板橋区)で46人もの入院患者が対象となる院内感染が発生し、感染が原因で少なくとも9人が亡くなった。情報共有が大幅に遅れ、拡大防止策が後手に回った結果、国内最大規模の被害につながった可能性が強い。

 感染症対策は、早期発見に基づく感染ルートの特定と速やかな情報の公表が大切だ。ところが、病院側は何度も公表の機会がありながら、1年近くも情報を伏せてきた。悪質な隠蔽(いんぺい)行為と言わざるを得ない。

 警視庁が、業務上過失致死の疑いもあるとみて医師ら病院関係者から感染が起きた経緯について事情を聴いたのは当然だ。東京都に加え、厚生労働省も医療法に基づいた異例の立ち入り検査を行った。行政としても結果次第で、特定機能病院の指定取り消しや一定期間の業務停止も含めて厳しい処分で臨む必要がある。

(中略)

 病院では昨年8月時点で最初とみられる感染者が見つかり、死亡者も出ていたのに、感染との因果関係が確認できないとして、対策部署への報告はなかった。

 保健所への報告や外部への公表は今月に入ってからだ。8月初旬には厚労省と都による定例の立ち入り検査が実施されていたが、報告もしていない。菌が検出された患者の転院時にも情報が転院先に伝えられなかった。病院側は「もう少し早く報告、公表すべきだった」と対応の不備を認めているが、結果の重大さに対する責任ある発言とはいえない。

 (中略)

 厚労省は今後、報告制度の在り方について検討する有識者会議を立ち上げるという。だが、どんなルールも医療機関としての自覚が前提となる。さもなければ絵に描いたもちにすぎない。
http://sankei.jp.msn.com/life/body/100907/bdy1009070244001-n1.htm

以上、引用終わり

情報の公表とは誰に対する公表のことをさしているのだろう。少なくとも、メディアに耐性菌情報を公開したからといって院内感染が減ることは絶対にない。公表の必要のないことを公表しないことは隠蔽工作とは言わない。今、叩かれるのを恐れた医療機関が慌てて記者会見をやっているが、その意義や意味は僕には分からないことが多い。単なるアリバイ作りに過ぎないことがほとんどだ。

警視庁が事情を聞き、厚労省が調査をしている段階で、何を根拠に「拡大防止策が後手に回った結果、国内最大規模の被害につながった可能性が強い」などと言えるのだろう。そんなことを言う根拠がどこにあるというのだ。国内最大規模の被害ってなんの被害のことだ?

厚労省は今後の報告制度のあり方を検討するという。検討するという未来の事項を今やらないという根拠で非難されるというのはどういう意味だろう。

「46人もの」というからには46という数字が「多い」ことを内意している。院内感染をゼロにするのは不可能だ。では、この名無しの主張者が適正と考える院内感染の数はいくつだというのだろう。多いとほのめかすのならば、「正しい数」「アクセプトできる数」を示すべきだ。それができないなら、「もの」という恣意的な表現をすべきではない。

新聞記者は統計学を学んでいないと昨日教えてもらった。「自分たちは文系だから」というのだが、これは驚くべきことだ。彼らは毎日数字を扱っている。内閣の支持率にしろ、降水確率にしろ、野球チームの勝率にしてもだ。内閣支持率が50%から52%になったとき、これが「支持率が上がった」というべきかどうかは、統計学を学ばずしてしゃべることができない。

僕は新聞記者が医学知識をたくさん持てとは主張しない。せめて日本語とか、数字とか、ロジックとか、自分たちが普段使っているものに対しては適切であってほしい。物書きとして最低限の能力や理念やプロ意識はもってほしい。

「結果の重大さに対する責任ある発言とはいえない」とはあなたのことである。少なくとも僕は、新聞記者だけには「責任ある発言をしろ」とは言われたくない。

責任ある主張とは次のようなものだ。

帝京大学病院でMDRABが見つかっている。現在厚労省と警察が調査中だ。調査中と言うことは何が起きているか現在ははっきりしていないと言うことだ。責任ある新聞記者として、私はこの時点で断定的に何かを語ったり、センセーショナルに誰かを攻撃したり、憶測でものを言うべきではない。だから、ここでは空想や憶測による安易な主張はせず、厚労省や警察の発表を静かに待とうと思う。読者諸氏も我々の責任ある報道を、今しばらくお待ちいただきたい。

これくらいかっこいい記者だったら、拍手送るけどなあ。

弁護士様への回答

コメントありがとうございます。

審判が必要か、という問いには「必要だ」とお答えしたいと思います。その審判が法曹界であるべきか、という点にはノーだというのが僕の見解です。もちろん、意図的な犯罪行為は別ですが(代理ムンチハウゼンとか)。

もっと言うと、むしろ審判と言うより医療に必要なのは技術委員会だと思います。「今のプレーはこうしたほうがよいんじゃないか」と検証するような存在です。なぜなら、野球における露骨なルール違反は、犯罪か否かのアナロジーですが、医療における議論のほとんどは(すべてではないですが)「その医療行為は正しかったか」はむしろ「そこはパスじゃなくてドリブルの方がよかったんじゃないのか?」というタイプの議論だからです。正邪の問題ではなく、どこまで正だったか?という議論です。およそ医療における議論では、それは僕らがよくやるM&Mカンファがそうですが、アウト、セーフという結論にはたいていなりません。

実際に裁判のために弁護士さんから意見を求められることがありますが、ほとんどの場合、議論がかみ合いません。「結局、医師がAマイシンを使ってさえいれば、死んだりしなかったんですよね。そうコメントしていただけますか」的な要望も受けます。それは後出しじゃんけん的には事実ですが、ちょっとなあ、と思います。これも、アウト、セーフ、よよいのよい、という議論です。僕は他人の医療行為を見て、アウト、セーフという物言いは絶対にしたくない。

例外的なひどい事例もありますので、100%法曹界は入ってくるな、とは思っていません。特に民事はそうでしょう。しかし、警察が入っていって医療とか感染症の領域でなにがセーフでなにがアウトかを判定するだけの能力を持っているとは僕は考えていません。特に院内感染というハザードに業務上過失致死という概念を持ち出すのは極めて危険です。

医療というエキスパティースがない人が医療を語る場合(官僚、特に臨床経験の浅い医系技官に多い。ちなみに研修医レベルは修行中なのでエキスパティースということばを用いる資格は持ちません。ちょっと現場にいました、という医系技官は専門家だと僕は思いません)、教科書とかマニュアル、ガイドラインに「合致しているか」だけが判断の基準になります。ルールのチェックをし、紙に書いてあるとおりなら○、そうでなければ×とされます。実際、裁判のときの資料請求はこんな感じです。しかし、教科書には書いてないレベル、教科書的記載には合致しない患者に対してどこまで応用問題が解けるかが現場のプロたるゆえんなのです。僕の日々推奨する抗菌薬は通常の医師が解けなかった難問に対する回答なのでアクロバティックでマニアックで、時に一見奇異なプランになることがあります。弁護士さんだって警察官だって教本通りにやっている人は(そんなものがあれば、の話ですが)あまり質の高い方ではないのじゃないでしょうか。

タミフル早期投与が死亡減少に寄与?

「 昨年大流行した新型インフルエンザ(H1N1)で、日本の感染者の死亡率が他国に比べて大幅に低かった原因は治療薬の早期投与とする分析を慶応大病院小児科とけいゆう病院(横浜市)がまとめた。香港で始まったインフルエンザ国際会議で3日、発表する。

 両病院は09年6月~10年1月に入院した1000人の子ども(平均6.4歳)を調べた。それによると、死亡したのは1人で致死率は0.1%、約 98%(984人)がタミフルなどの治療薬を使用。このうち発症時期が分かった667人のうち約89%(593人)が投与期間とされる発症48時間以内に 処方されていた。米国やアルゼンチンでも患者の8割近くが治療薬を使用しているが、48時間以内の処置は5割以下、致死率は5~7%というデータがある。 【関東晋慈】」以上引用終わり 毎日新聞9月3日 2010年

毎日新聞のこの記事で一番評価したいのは署名記事だ、ということだ。いずれにしてもある医療機関(あるいは医療機関群)でたくさん民古さ早期に投与されていた、という情報がなぜ国の死亡率減少に寄与している、という結果になるのか(少なくとも記事からはよく分からない)。

僕はタミフル早期投与に意味がないとは思っていない。特にリスクグループには大事なことだ。日本でなぜ妊婦の死亡者がおらず、アメリカなど諸外国では特にリスクだったかを考えるのは重要である。体重?しかし第一三半期でも死亡率は有意に高かった。しかし、早期に抗インフルエンザ薬を投与された群では有意差はない。リスクグループには早期の抗インフルエンザ薬が重要であると考えてよいデータである。

http://jama.ama-assn.org/cgi/content/abstract/303/15/1517

以下は今月のメディカル朝日に載せた論考。残りはぜひ本誌を読んでください。

およそ臨床感染症の世界において、「正しい答え」というたった一つの正解は存在しないということです。学生さんは通常、「これが正しい答え」「その他は間違った答え」という世界観で諸学を学びます(そのなれの果てが、マルチプル・チョイス・クエスチョン方式の試験ですね)。しかし、臨床現場においては、とくに感染症の現場においては正解は必ずしも一つとは限りません。また、その選択肢以外が「不正解」とも限りません。若い研修医が持ちがちな、「これは正しい」「あれは間違い」という世界観から、「Aも選択肢としてはあり」「Bも決して間違いではない」「では、どちらのほうがより妥当な選択か?」という問いの立て方に変換してもらうよう、僕は促します。感染症の知識よりも、この思考プロセスの道筋の変更のほうがずっと研修医にとっては大切なことです(そしてずっと難しい)。 
 2009年は新型インフルエンザという現象に我々みんなが振り回された年でした。このことについてちょっと考えてみましょう。
 本稿執筆時点で新型インフルエンザA/H1N1パンデミックにおける日本の死亡者数は「だいたい」200人程度と言われています。これは国際的にも「おそらくは」少ない数だと考えられています。他国では、死亡者がもっと多かったという見解もあります。例えば、アメリカでは日本にくらべて人口あたりの死亡者数が20倍程度あったのではないか?という「意見」があります。そして、その原因にはいろいろな説があるものの、抗インフルエンザ薬、具体的にはタミフル(オセルタミビル)の早期投与が死亡者を少なくしたのではないかという「主張」があります。
 「だいたい」「おそらくは」「意見」「主張」と括弧付けで煮え切らない表現をせねばならないのは、これらの言説が科学的に検証したもの、というよりはおおざっぱな観察に基づく推測以上の何者でもないからです。例えば、オランダでは同疾患による死亡者数は40名と見積もられています。オランダの人口は約1,700万人。人口あたりの死亡者数は測定誤差も考えると日本とどっこいどっこいといえるでしょう。しかし、オランダの政策ではインフルエンザ様症状の患者は「原則自宅療養」で、医療機関の受診を推奨していませんでした。多くの患者にはタミフルは処方されていなかったのです。
 したがって、オランダの事象を見る限り、日本の死亡者数の現状をタミフル「だけ」に帰するのは無理があると僕は思います。他国との比較というと我々はついうっかりアメリカばかりを見てしまうのですが、アメリカ=世界ではないのですね。
 さて、試しに「だいたい」「おそらくは」「意見」「主張」がすべて正しい、と仮定してみましょうか。ここでは「アメリカと日本の20倍の死亡率の差は、タミフルの早期投与がもたらした成果である」という仮説を立てます。
 おおざっぱには、日本における発症患者中の死亡率は10万人に1人、つまり0.001%程度とされています。アメリカは20倍の0.02%。相対リスクだけみているとわかりにくいのですが、インフルエンザはいずれにしても死亡率の低い疾患であることが分かりますね。絶対リスク減は0.02-0.001=0.019。NNT(number needed to treat)は5200人以上くらいになります。
 つまり、日本人死亡者減の貢献を100%タミフルに帰したというかなり非現実的な仮説を立てたとしても、5000人以上処方しないと1人の命を救えないのです。早期受診とか国民皆保険とか、他の様々な要素が絡むでしょうから、現実にはNNTはさらに増えます。では、タミフルの副作用、耐性、コストといったリスクを勘案して、この(少なくとも)5000人以上という数字は正当化されるでしょうか。
 抗ウイルス薬がインフルエンザの治療に貢献していることは間違いないと僕は思います。重症化の減少や重症患者の死亡率低下にも寄与している可能性も高いと考えます。では、そのことをもって、「だれでもインフルエンザであれば必ず抗ウイルス薬」という結論でよいのでしょうか?「出す」「出さない」という二者択一の議論でよいのでしょうか?ここは平坦な議論ではなく、重層的な大人の議論が必要になると思います。「どういう条件下では、タミフルの利益が不利益を明らかに上回り、その処方が正当化されるのか?」といったような。
 耐性ウイルスの懸念についてこんな話があります。タミフル耐性が出てもリレンザ(ザナミビル)がある。最近承認されたばかりの注射薬、ペラミビルという薬もある。実はその他にも、現在開発中の抗インフルエンザ薬がいくつかある。もしタミフル耐性ウイルスがでても、また新しいインフルエンザの薬を開発すればよいではないか。

 我々はこれにとてもよく似た話を知っています。

 1950年代にペニシリン耐性菌が増えたとき、それではと耐性菌を払拭するような抗菌薬を開発しました。セファロスポリンが第1世代、第2世代、第3世代と開発されていきます。ニューキノロン系抗菌薬ができ、カルバペネムができ、、、その一方で、我々は何と直面しなければならなかったでしょうか。そう、MRSAです。ほとんど既存の抗菌薬が通用しないMRSAのために多くの患者さんが亡くなり、「院内感染」や「MRSA」は一般にも通用する言葉になってしまいました。現在ではMRSA感染症を治療する抗菌薬は複数存在します。その一方、グラム陰性菌の耐性化は近年進んでいます。そのスピードは、新たな抗菌薬の開発のスピードよりも遙かに速いのです。
 我々は歴史から学ばなければなりません。賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶという言葉があるとおりです。耐性化−>新しい薬という構図はいつか破綻します。そのことを我々は歴史から学んでいるはずです。だから、単純に平坦に物事を考えるのではなく、複雑に重層的に、しっかりとゆっくりとものを考えなければいけないのです。そのための適切な抗菌薬使用なのですね。

たった一つのこと

患者さんに、「この本どう思います?」と二つの本について相談される。タイトルはうろ覚えだが、健康になるために必要なたった一つのこと、とかこの食事で病気にならない、、、みたいな感じだった。

「一般に、こうすればうまくいく、とかたった一つのなんとか、みたいな本はビジネスであれ、英語の教科書であれ、医学であれ、幸福になるための本であれ、インチキだと僕は思いますよ。その本は読んでませんけどね」

一意的な、そしてシンプルな100戦100勝のソリューションを提示する本はたいてい信用できない。

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51472821.html

マスメディアが没落するという必然性

ここでのマスメディアは新聞とテレビ(今の地上波)である。僕は両者はこのまま没落する可能性が高いと思っている。茂木さんの新聞八策は達見だがこれはもうずっと前から提唱されていたことだ。こういうものはだんだん、いわゆるミドルメディアに流れていくことだろう。マスメディアの新聞において、日本でこれが実現しないと言うことは、当の新聞がこういう姿になることを望んでいないからだ。

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2010/09/post-6fc1.html

世界的に見ても、発行部数が1000万部以上の新聞などが存在することそのものが奇異なのである。NYタイムズもルモンドも読者を選ぶ。1000万部以上出す新聞が目指すのは、ボトムをターゲットに記事を書く、という話法しかないことだ。しかも、しばしばその見積もりはアンダーエスティメイトである。テレビも新聞も「所詮、俺たちの顧客はこの程度だよ」と舐めているのである。この話法そのものは構造的なものである。したがって、新聞記者がいくら知識を高めたからと言って話法そのものが変ずることはありえない。

しかし、実際には僕らはこの話法に飽きている。

昔は日本全国で共有できる存在があった。例えば、歌謡曲である。「ベストテン」や「紅白歌合戦」が高い視聴率(これも定型的な価値観だが)を保てたのも、日本に歌謡曲があり、それが共有できたからだ。天声人語は「入試に出る」正しい文章と僕らは学校で教わった。

しかし、このような言説に僕らはもう納得できなくなっている。各自各様の価値観や世界観をすべて統合して新聞、テレビとすることが不可能になっているのである。その多様性の幅の中で定型的な話法はどんどん陳腐になっていく。

そこで、取材には必ず応じなければならないとか、新聞にコメントを出さねばならないという義理はどこに生じるのだろう。わずかなスペースに15分の話を「ひとこと」まとめ込んでしまうと、それは断定口調、糾弾口調にならざるを得ない。「○○はけしからん」となりがちである。これは知識の多寡の問題と言うより構造問題なのだ。テレビ番組のコメンテーターも同様である。

しかし、大抵の事象は複雑で、断定できないことが多い。断定できないことを断定してしまうから無理が生じる。だから、僕は基本的に新聞やテレビの取材はお断りしているのだ。もちろん、このからくりに自覚的な方もおいでだから、例外は常に設けているが(こないだパピローマで毎日放送に出ました)。あと、ミドルメディアも例外となることもあるが。

僕はだから、歴史的役割を終えた「マス」メディアにはしずしずとゆっくりと退場いただくのが正しいあり方だと思っている。だから、バッシングではなく、パッシングなのだ。取材に応じるのはクライシス時のタイムマネジメントでいうと、そのプロダクツのプアなことを考えると、どう考えても合理的な行為とは言えない。むろん、そこにあるものは当然あるものという「現在の常識」から見ると僕の見解は定型的な正しさも政治的な正しさも持っていない。暴論にしか聞こえないだろうが、まあそれはそれでかまわない。

サンデルと正義

正義について突き詰めて考えた本。YouTubeのときはサラリと流されて分かりづらかった論旨もここでは徹底してつっこんでいるので、ようやく理解ができるようになった。カントについてもやや理解が深まった。これは歯ごたえのある良書だと思う。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

      
これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

著者:マイケル・サンデル,Michael J. Sandel

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

あえていうが、数の問題ではない

SENICでの適正な感染管理プラクティショナーの数は250床にひとり、オランダなら160人くらいでひとりだ。確かに、感染管理者の数は重要である。

しかし、最重要な問題ではない。

沖縄県立中部病院はながく遠藤和郎先生ひとりがリンクナースと協働して感染管理をされている。ドクター一人でも、スーパードクターだと全然パフォーマンスが違う。

他方、全然感染症の訓練も受けず、知識もない「なんちゃって」感染管理委員長は全国にあまねくいる。というよりこちらのほうがマジョリティーであろう。数あわせをしてもなんの意味もないのである。

http://www.asahi.com/health/news/TKY201009050001.html

繰り返すが、今回の事件は長年にわたる厚労省のコンプレーセンシー(無関心)に遠因がある。

>厚労省の担当者は「院内の医師や看護師らに重大性が伝わっていないのは伝え方に問題がある。情報共有が形だけになっていた可能性がある」と話している。

みたいな文を読むと、「評論家面して、自分は関係ないみたいにいうなよ」と僕はむかつく。

http://www.asahi.com/national/update/0904/TKY201009040135.html?ref=recc

>都医療安全課の田中敦子課長は「同規模の病院であれば、多いところで専従職員を3人おいている病院もある」と話した。厚生労働省の担当者も「この規模の病 院で院内感染対策の専任医師が1人というのは少ない。対策に力を入れている同規模の病院では、感染対策に携わる医師が5、6人いるところもある」と指摘す る。

うそつけ、どこの病院に感染症の医師が5人も6人もいるというのだ。神戸大の感染制御部のドクターは2人(荒川先生、阿部先生)だぞ。ICNも感染症専門医も1000人くらい(このうち実地訓練を受けた感染症専門医はごくわずか)。日本の病院がいくつあるというのだ。あとは水増ししたなんちゃってICDが大量にいるだけだ。医療機能評価ではあるまいし、ICDが200人くらいそろえば満足なのだろうか(3回講習受けるだけなので、その気になれば病院の医師全員ICDにすることだって可能です)。そういう問題ではないだろう。

内実も理解せずに、数あわせばかりしてどうするというのだ。

時間とよしながふみとプルースト

なんか怒ったブログばかりなので、すこし和みを

大奥 第6巻 (ジェッツコミックス)

      
大奥 第6巻 (ジェッツコミックス)

著者:よしなが ふみ

大奥 第6巻 (ジェッツコミックス)

よしながふみのおもしろさは絵のきれいさや同性愛を盛り込んだところなんかもあるが、とにかく「時間の使い方のうまさ」にある。大奥はもともと時代劇なのでその辺にあまり気がつかなかったのだが、

西洋骨董洋菓子店 (1) (Wings comics)

      
西洋骨董洋菓子店 (1) (Wings comics)

著者:よしなが ふみ

西洋骨董洋菓子店 (1) (Wings comics)

を読んだら本当にこの人は時間の使い方がうまいのだな、と感嘆した。行ったり来たり。プルーストもびっくりだ(かな?)。それと、キャラのポリフォニーがすばらしく、そう言う意味ではドストエフスキーっぽい。いや、ほんと、すごいっす。

愛がなくても喰ってゆけます。

      
愛がなくても喰ってゆけます。

著者:よしなが ふみ

愛がなくても喰ってゆけます。

ひいきのひきだおしでこんなのまで読んじゃいました。

None of your business

誤解のないように繰り返しておくが、僕は何も帝京大学病院が無謬だったとか問題がないと仲間褒めをしたり弁護したいわけではない。

コメントする材料が乏しいのでノーコメントを貫いているだけだ。

しかし、厚労省に報告しなかったのはけしからん、というのは筋の通らない議論である。

そもそも、厚労省は耐性アシネトバクターを重要視してこなかった。

数年前、僕は厚労省の多剤耐性菌を担当している官僚と話をしたことがある。どこの部署だったかは忘れたけど(僕は担当部署を暗記するという官僚的な才能が全くない)。そのとき、多剤耐性アシネトバクターの問題やコリスチン・ポリミキシンの導入についても具申したのだが「メジャーな学会が問題にしていない」「誰も特に困っていない」「あなただけがそう言っているんじゃないですか」と全く相手にされなかった。彼ももう今は別の部署にいるけどね。

病院にアシネトバクター届け出の「義務」はない。H21年の通知で「お願い」されただけなのだ。法的拘束力はない。

もし厚労省が本気でこの菌を問題にしていたのならば、感染症法改正をして届け出感染症にしておけばよかったのである。コリスチンを緊急承認して治療体制を整えればよかったのである。そう言う営為を全くやらないでおいて、コリスチンについては未承認薬の流れでようやく議論されるようになったばかりだ。ことが起きると「なぜ報告しない」と難じるのは全く持って筋違いな物言いだ。今まで自分たちは何をやっていたというのだ。

繰り返すが、厚労省にも保健所にも院内感染対策のエキスパティースはない。それは、食品衛生的な問題とはまるで違う。ラーメンにゴキブリが入っていましたよ、という問題とは違うのだ。

院内感染は日々起きている。これは医療の宿痾のようなもので、絶対に避けられない。

もしカテーテル関連の血流感染をゼロにしたければ、ソリューションは一つである。ショックの患者に輸液をせず、栄養不良の患者に栄養を提供するのを拒み、見殺しにすればよいのである。呼吸苦に苦しむ患者を挿管しなければ人工呼吸器関連肺炎はゼロにできる。

それができないから、感染症が起きるのだ。感染症は医療を行った上でどうしても生じるゼロにできないリスクなのである。ゼロにできないリスクをいかに最小限にとどめるかに我々は毎日心血を注いでいる。これは、食中毒を起こさないための食品衛生というより、犯罪者を減らし、犯罪者をみつけ、そして犯罪に対応するといった警察的な行為に近い。

犯罪者が出現した、犯罪が起きた、という理由で警察や検察が法的に糾弾されたり罰せられたりするだろうか?

したがって、院内感染の問題に警察が介入するなど、ありえないことなのである。今回の問題を検証しなくてよいとか、改善は不要である、と申し上げているのではない。どの院内感染が不可避で、どの院内感染が回避可能であったかなど、法曹界にはジャッジできないと申し上げているのである。大野事件を思い出すべきである。これはNone of your businessなのだ。

医療の世界観は法曹界にはそぐわない

警察と院内感染対策は絶対にかみ合わない。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/100904/crm1009040145003-n1.htm

これも今度出す(予定)の本の原稿から抜粋。

 ついでですから、ちょっと医療と法曹界の話をしておきましょう。
 僕は最近よく医療紛争系の相談を受けます。患者サイドからも、医療者サイドからも相談を受けます。彼らの話は切実で、つらい話ばかりです。
 以下、プライバシーの問題があるので、話の要点だけ変えずに詳細をデフォルメしてご紹介します。
「俺の息子はあの医者に殺されたんだ」
 というトラック運転手さん。その弁護士さんに
「息子さんはあの医者のせいで死んだという意見書を書いてください」
と頼まれる。この患者さんはあるAというばい菌が起こした感染症でお亡くなりになりました。もしBという治療薬を使っていれば治療が可能であったかもしれない感染症でした。でも主治医はそうはしなかった。
 確かにこの医者がBを使っていればAの感染症は治療できたかもしれません。しかし、それは後付けの説明なのです。
 ある感染症の治療がうまくいくか、いかないか。これはやってみないと分かりません。当たることもありますが、外れることもあります。もちろん、あたりの確率を増やす工夫はしますし、たいていは当たるのですが、あくまでも確率論なので外れることはあります。どんなにバッターががんばっても打率10割にならないのと同じです。外れをなくそうとして、たくさんの抗生物質を使うと、今度は副作用が増えて結局患者さんは損をします。治療は上手くいきたいけど、副作用は出したくない。このジレンマの中で、微妙なさじ加減でがんばるのが医者の仕事です。でも、他のどの業界がそうであるように、100戦100勝はあり得ない。イチローでも打率10割は不可能なように。
 この方はAという微生物が起こした感染症で亡くなった方です。しかし、僕はそれを「Bという抗生物質を出さなかった医者が殺したのだ」という一意的な原因に落とし込むことに大きなためらいと抵抗を感じます。それは、「あのとき外角高めに狙いを絞ってバットを振っていれば、ホームランだったのに」というのと同じだからです。それは後から見るからそういえるので、事前には分かりようのないことなのです。

複雑な医療の世界

 それに、医療において、うまくいったり、うまくいかなかった「理由」は一意的なものではないことがほとんどなのです。
 熟年夫婦が離婚した、なんて話がありますね。どうして離婚なんてしたの?と訊くと、
「だってあの人が、{今日の晩飯、まずいな}なんて言うんですもの」
と奥さんが涙を浮かべて説明したとしましょう。
 このとき、もちろん離婚の原因は旦那さんが「食事がまずいと言ったこと」だけではありません。その背景には長い年月のあれやこれや、あれやこれや、あれやこれやのエピソードがあったに違いないのです。たくさんの理由があったのです。それがたまりにたまって、最後の最後で、「まずい」だったのです。まずい、は理由のほんの一要素に過ぎません。
 同じように、感染症の世界は複雑です。ニュートン力学みたいに初期値を代入すればアウトカム(結果)が正確に予想できるような世界観では作られていません。関与している要素はたくさんあるのです。患者さんの年齢、性別、各種の臓器の機能、飲んでいる薬、食べている食事、、、、本当にいろいろな要素が絡み合って感染症の世界を作っています。
 件の患者さんも、Bという薬が無かったことは患者さんの死亡に「寄与」はしています。でも、それは要素のほんの一つに過ぎません。患者さんのもとの病気、免疫の状態、感染症の重症さ、、、いろいろなことが状態を悪くして、最後の一押しが、薬の選択でした。
 厳密な意味で、感染症の未来を予測することは不可能です。新型インフルエンザに関わっていた2009年。僕は多くの人から「将来の流行はどうなりますか」と訊かれましたが、そんなこと分かるわけないんですね。「将来こうなる」なんて断言するのは、感染症のプロではなくてどこかのギャンブラーだけですよ。
 AをやるとBになる。AをやらなかったからCになった。このような一意的な世界観からは感染症の世界は遠いところにあります。医師の振るまい、薬の選択は当然患者さんに寄与します。自分たちの仕事の責任の重さは重々承知していますが、だからといって原因の全てを医師の振る舞いに帰してしまうのは、この世界観を平坦に扱いすぎているように思います。
 患者さんがよくなったり悪くなったりするのはいろいろな事情が重なって、その複雑な体系の中でぼんやりと決められます。医者がよかった、悪かった、という単純な要素だけでは決められません。患者さんが良くならない時に、一方的に医者にその責任を帰するのは不可能なのです。
 しかし、法曹界は違います。裁判所とは、誰かが正しく誰かが間違っており、ある事象が起きたのは単一の「こいつ」のせいだ、という世界観を持つ場所だからです。医療の世界観とは全く違うのです。
 このような法曹界の「善か悪か」「誰かが正しくて、そうでないと間違っている」という世界観で、複雑な医療を語るのは本質的に無理があります。医療者による恣意的な殺人事件とかは別にして(そんなものほとんどありませんが)、医療の問題を裁判所に持っていって欲しくはないのは、そのためなのです。

マスコミのバッシングには、マスコミ・パッシングを

昨日草稿が書き上がったばかりのワクチンの本の原稿の一部をここに供覧します。ご覧ください。この前の部分で「厚労省の行動規範は「批判されないこと」である」という論があるので、そこがないと唐突な印象があると思いますが、まあそういうことです。

 最近思うのですが、僕らはそろそろマスメディアを黙殺する、「マスコミ・パッシング」という戦略を積極的に採用するときにきていると思います。
 僕は今、新聞を取っていません。出張に行ったときにホテルに届く朝刊くらいしか読みません。テレビもほとんど見ません。以前はスポーツ中継と映画、そしてドキュメンタリーくらいは見ていましたが、映画もレンタルDVD以外は見なくなり(最近はそれもなかなか見る時間がありませんが)、ドキュメンタリーも演出たっぷりの一種の「フィクション」だと認識するようになってからほとんど見なくなりました。
 インターネットの普及でテレビとか新聞というメディアの必要性が薄れてしまったから、という側面もあると思います。けれど、もっとも大きな理由は、「マスメディアからは欲しい情報が得られない」からです。日本のテレビや新聞では、謎が解けるよりも謎が増えてしまうことが多いのです。いつも同じ語り口、いつも同じ論調、いつも同じ仮想敵とそのバッシング、ということで展開はワンパターンなのですね。
 今朝(2010年9月4日)、たまたま偶然つけたテレビである大学病院でアシネトバクター感染症が多発し、死亡者がでたことが報じられていました。しかし、僕はそのニュースを見ていて何のことだかまったく理解できませんでした。アシネトバクターは院内の感染症を起こすことで有名で、そのこと自体は珍しいことではありません。病院に過失があったのか、あるいはその他の原因があったのか、ニュースはそのあたりについては一切語りません。そのテレビのニュースは「なんとなくある大学病院が悪いことをしている」ような印象を映像からメッセージとして伝えていますが、具体的に何がどう問題だったのかはまったく理解できないのです。僕のような感染症のプロがみてもさっぱりなのですから、一般の方には全然理解できなかったのではないでしょうか。結局そのニュースが伝えたかったことは、「大学病院がひどいことをやっている」っぽいメッセージを全国に流しただけなのでした。
 2009年にインフルエンザのパンデミックが起きたとき、関係者が一様に言っていたのは「とにかく大変だったのはマスコミ対応だった」でした。先日インフルエンザに関するリスクコミュニケーション・ワークショップをやったのですが、多くの方が「今後どのようにしてマスコミに対応していくかが課題だ」とおっしゃっていました。しかし、パネリストのお一人だった内田樹さんはこれに対して「メディアはシャットアウトした方がよいと思いますよ」とおっしゃっていました。僕もそう思っていたので我が意を得たり、でした。
 なぜ、みんな一所懸命メディアの言いなりになり、彼らの要求に応じ、そして親切丁寧に対応し、記者会見に応え、お辞儀をしなければならないのでしょう。だったら、「今忙しいから、取材には応じられません」と一言言えばよいだけなのではないでしょうか。
 そういうことをすると、「情報を隠蔽している」とか批判されますが、じゃあ、メディアに情報を開陳したらきちんとそれを報道してくれるかというとそんな保証はありません。 どうせ記者会見やったって正確な情報は流してはくれません。
 メディアに情報を開陳しなければならない義務など実はどこにもないのです。むしろ、これだけ情報開示のツールが増えたのですから、なにか開示しなければいけない情報は自分のホームページやブログかツイッターか、そういう媒介を介して公開すればよいではないですか。今、芸能人などは結婚の情報などを記者会見ではなくブログに公開することがありますよね。そしてメディアも「ブログによると」とこれを情報のソースに芸能ニュースを報じています。ブログに公開すれば、メディアがいい加減なことを書いたとしても、すぐに元のブログというソースを担保にして真偽を確認できます。一種のトライアンギュレーション(三角測量的検定)ができます。
 この方法を使えば、いい加減なことを書くメディアもだんだん淘汰されていくのではないでしょうか。まあ、メディアに批判されても、テレビも新聞もスルーして見なければ全然気にならず問題にもならない、という考え方もありますが。
 僕は2ちゃんねるとか掲示板とか見ないので、自分のことがたとえそこでボコボコに言われていてもぜんぜん気になりません(というか気がつきません)。ああ、それで思い出しましたが、僕は匿名コメントというのが個人的に嫌いです。それは感情的な嫌悪なので別に匿名コメントをされる方そのものを否定したりはしないのですが。ですから、僕のブログやアマゾンの書評できついコメントをされても全然気になりません。自分の名前を出すリスクを冒さない暴言の類は、トイレの落書きとほとんど同じだと僕は思っているので、微笑みをたたえて黙殺するだけなのです。
 話を戻します。厚労省の行動規範は「批判されないこと」であり、その批判者はメディアです。僕は彼らによく言います。官僚はメディアがいい加減なことを書くといつも不満を言い、軽蔑するくせに、メディアに批判されることを極度に恐れるのはおかしいのではないか、と。そんなに軽蔑の対象にしてるのなら、軽くスルーしちゃえばよいのに。別に選挙に出る訳じゃないんだから(選挙に出る政治家の方はメディアに露出しないと当選しづらいようですね)。
 メディア・パッシングをすれば「批判をされないための」という行動規範がなくなります。情報公開は自らのツールを使って行います。そうしたら、今度こそ「本当の行動規範は何か」というより深い命題を検討できるはずなのです。いい考えだと思うけどなあ。

保健所・厚労省には院内感染に対応するエクスパティースはない

この話をもう少し続ける。

大阪の病院で看護師がパンデミックに罹患したとき、厚労省新型インフルエンザ対策室の官僚は「現場を見もしないで」勤務する病棟を閉じよと命じた。気骨あるその病院のICNたちはそれを暴論として拒絶したのである。

当然、看護師一人がインフルエンザになったからも言って病棟を閉じる必要はないし、また病棟を閉じるというのは大変な営為である。

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20100905ddm041040051000c.html

保健所にしても厚労省にしても(そして感染症研究所にしても)院内感染対策の知識も経験も不足している。病院にいれば感染症のアウトブレイクは大なり小なりかならず経験する(病院内アウトブレイクが起こってはいけないというゼロリスク信仰の前提は間違っている)。経験値は高い。ICNは6ヶ月もフルタイムで勉強して試験を合格して得る資格である。専門的知識もずっと豊富である。厚労省に感染対策のためフルに6ヶ月間を勉強に費やした人物が果たして何人いるだろうか。年という単位で実地訓練を受け、何百、何千という耐性菌感染症に対峙した人物などいるだろうか?

現場のICNのほうがはるかにそのような問題に対する解決策を熟知している。その熟知しているプロである現場のICTが素人である保健所や厚労省に報告したからといって、問題の解決がなにか改善するわけではない。恐ろしいのは、責任回避のために極端な防衛策を強いて現場を圧迫することである。このはなし、去年もしなかったっけ。

確証はまだないが、多剤耐性アシネトバクターは外からの持ち込みの可能性も高い。感受性アシネトバクターが病院内で多剤耐性化することはまれだからだ。外から持ち込んだ耐性菌に苦しんでいるのであれば、病院もまた被害者である。放火された家庭に「おまえのうちは消火の仕方がなっていない」というのがまず第一にかけられるべき言葉だろうか。



よく分からない多剤耐性菌報道

多剤耐性アシネトバクターの問題が報道されている。ウェブとテレビをちょろっと見たが意味が分からない。被害の価値も、意味もよく分からない。死亡者が感染症に関連しているかも分からないのに被害が甚大とする報道も報道だ。そもそも、「感染」の定義すら書いていない。僕が見ていてわけわかんないんだから、ほとんどの人は何が起こったのか理解できないのではないか。たぶん、社説を書いている当人も何が問題なのかは把握していないと思う。この時点で、帝京大学病院を擁護も非難もできない。すべきでもない。

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20100903-OYT1T01201.htm?from=nwla

http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/news/20100905k0000m070091000c.html

メディアは保健所への報告が遅すぎる、としているが、そもそもアシネトバクターは感染症法における届け出義務のある感染症ではない。厚労省も平成21年の通知があるが(こんなのすぐには見つけられないけど)、保健所に届けよとは書いていない。衛生主管部(局) 院内感染対策主管課 に厚労省に通知せよとは書いているが。

http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/isei/i-anzen/hourei/index.html

僕はこないだデング熱の報告をしたが、あれ、報告しても保健所ってできること、やるべきことってほとんどないのだ。感染症の届け出が形骸化していて、保健所も対応のスキルやノウハウもない。院内感染に関する限り、ICNのほうが絶対にエキスパティースは高い。厚労省の通知なんて教科書からひっぱってきたような「当たり前のこと」しか書いていない。

「対策としては、緑膿菌と同様に、日常的な医療環境の衛生管理の実施と標準予防策の励行とともに、本菌が尿や喀痰などから検出された患者における接触感染予防策の徹底、さらに、病院内の湿潤箇所や、特に人工呼吸器の衛生管理と消毒などに留意する必要がある。点滴などの混合は、可能な限り無菌的な環境と操作により行ない、混合後、直ちに使用する。」

保健所に早く相談すれば何かいいことがある、という発想そのものがナイーブである。

多剤耐性アシネトバクターはアメリカで10年も前から問題になっていて、いつかはどこかでやってくる問題なのは分かっていた。僕がアメリカにいたときは、この菌のために病棟を閉鎖したこともある。

治療薬のコリスチン・ポリミキシンBの不備も分かっていた。だから、神戸大感染症内科でも未承認薬のポリミキシンBを海外から購入して備蓄している。そういうことは何年も前からの問題なのに新聞はそのことを今まで問題視すらしてこなかったのである。「街場のメディア論」ではないが、今までの対応不手際をほったらかしておいて、今更驚いたふりをされても困る。

耐性菌対策はアシネトバクターだからこうで、緑膿菌だからああで、NDM−1だからうんとかいうものではない。病院の総合力の問題である。各菌を別々に対応すること自体、日本の耐性菌対策が微生物に対する各論的アプローチしかできていないことを意味している。

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