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マスコミのバッシングには、マスコミ・パッシングを

昨日草稿が書き上がったばかりのワクチンの本の原稿の一部をここに供覧します。ご覧ください。この前の部分で「厚労省の行動規範は「批判されないこと」である」という論があるので、そこがないと唐突な印象があると思いますが、まあそういうことです。

 最近思うのですが、僕らはそろそろマスメディアを黙殺する、「マスコミ・パッシング」という戦略を積極的に採用するときにきていると思います。
 僕は今、新聞を取っていません。出張に行ったときにホテルに届く朝刊くらいしか読みません。テレビもほとんど見ません。以前はスポーツ中継と映画、そしてドキュメンタリーくらいは見ていましたが、映画もレンタルDVD以外は見なくなり(最近はそれもなかなか見る時間がありませんが)、ドキュメンタリーも演出たっぷりの一種の「フィクション」だと認識するようになってからほとんど見なくなりました。
 インターネットの普及でテレビとか新聞というメディアの必要性が薄れてしまったから、という側面もあると思います。けれど、もっとも大きな理由は、「マスメディアからは欲しい情報が得られない」からです。日本のテレビや新聞では、謎が解けるよりも謎が増えてしまうことが多いのです。いつも同じ語り口、いつも同じ論調、いつも同じ仮想敵とそのバッシング、ということで展開はワンパターンなのですね。
 今朝(2010年9月4日)、たまたま偶然つけたテレビである大学病院でアシネトバクター感染症が多発し、死亡者がでたことが報じられていました。しかし、僕はそのニュースを見ていて何のことだかまったく理解できませんでした。アシネトバクターは院内の感染症を起こすことで有名で、そのこと自体は珍しいことではありません。病院に過失があったのか、あるいはその他の原因があったのか、ニュースはそのあたりについては一切語りません。そのテレビのニュースは「なんとなくある大学病院が悪いことをしている」ような印象を映像からメッセージとして伝えていますが、具体的に何がどう問題だったのかはまったく理解できないのです。僕のような感染症のプロがみてもさっぱりなのですから、一般の方には全然理解できなかったのではないでしょうか。結局そのニュースが伝えたかったことは、「大学病院がひどいことをやっている」っぽいメッセージを全国に流しただけなのでした。
 2009年にインフルエンザのパンデミックが起きたとき、関係者が一様に言っていたのは「とにかく大変だったのはマスコミ対応だった」でした。先日インフルエンザに関するリスクコミュニケーション・ワークショップをやったのですが、多くの方が「今後どのようにしてマスコミに対応していくかが課題だ」とおっしゃっていました。しかし、パネリストのお一人だった内田樹さんはこれに対して「メディアはシャットアウトした方がよいと思いますよ」とおっしゃっていました。僕もそう思っていたので我が意を得たり、でした。
 なぜ、みんな一所懸命メディアの言いなりになり、彼らの要求に応じ、そして親切丁寧に対応し、記者会見に応え、お辞儀をしなければならないのでしょう。だったら、「今忙しいから、取材には応じられません」と一言言えばよいだけなのではないでしょうか。
 そういうことをすると、「情報を隠蔽している」とか批判されますが、じゃあ、メディアに情報を開陳したらきちんとそれを報道してくれるかというとそんな保証はありません。 どうせ記者会見やったって正確な情報は流してはくれません。
 メディアに情報を開陳しなければならない義務など実はどこにもないのです。むしろ、これだけ情報開示のツールが増えたのですから、なにか開示しなければいけない情報は自分のホームページやブログかツイッターか、そういう媒介を介して公開すればよいではないですか。今、芸能人などは結婚の情報などを記者会見ではなくブログに公開することがありますよね。そしてメディアも「ブログによると」とこれを情報のソースに芸能ニュースを報じています。ブログに公開すれば、メディアがいい加減なことを書いたとしても、すぐに元のブログというソースを担保にして真偽を確認できます。一種のトライアンギュレーション(三角測量的検定)ができます。
 この方法を使えば、いい加減なことを書くメディアもだんだん淘汰されていくのではないでしょうか。まあ、メディアに批判されても、テレビも新聞もスルーして見なければ全然気にならず問題にもならない、という考え方もありますが。
 僕は2ちゃんねるとか掲示板とか見ないので、自分のことがたとえそこでボコボコに言われていてもぜんぜん気になりません(というか気がつきません)。ああ、それで思い出しましたが、僕は匿名コメントというのが個人的に嫌いです。それは感情的な嫌悪なので別に匿名コメントをされる方そのものを否定したりはしないのですが。ですから、僕のブログやアマゾンの書評できついコメントをされても全然気になりません。自分の名前を出すリスクを冒さない暴言の類は、トイレの落書きとほとんど同じだと僕は思っているので、微笑みをたたえて黙殺するだけなのです。
 話を戻します。厚労省の行動規範は「批判されないこと」であり、その批判者はメディアです。僕は彼らによく言います。官僚はメディアがいい加減なことを書くといつも不満を言い、軽蔑するくせに、メディアに批判されることを極度に恐れるのはおかしいのではないか、と。そんなに軽蔑の対象にしてるのなら、軽くスルーしちゃえばよいのに。別に選挙に出る訳じゃないんだから(選挙に出る政治家の方はメディアに露出しないと当選しづらいようですね)。
 メディア・パッシングをすれば「批判をされないための」という行動規範がなくなります。情報公開は自らのツールを使って行います。そうしたら、今度こそ「本当の行動規範は何か」というより深い命題を検討できるはずなのです。いい考えだと思うけどなあ。

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コメント

岩田先生、いつも勉強させていただいております。
このマスコミ・パッシングの件、最初から最後まで深く同意します。
というか、僭越ながら私も全く同じ事を感じて実行しようとしております。
(家族がテレビレスの生活に納得しないので、自宅には地デジ契約してしまいましたが・・・(苦笑))
草稿を拝見して感じたのは、この○○パッシングという考え方は何もマスコミに対してだけでなく、ブログ・twitterその他のインターネット上コミュニケーションにおいても同じなんではないかという事でした。
にも関わらず、一見簡単に思えるこのパッシングの実行が容易でない理由は、おそらく自分自身の中にあるのだと思います。
パッシングをすることでup to dateな情報について行けなくなるのではないかという不安(横並びから外れる不安:そんなものに価値はない事は分かっているはずなのに)、知らないところで自分の評価が自分の本意に沿わないものに変わってしまっているのではないかという不安(評価なんてそもそも本人がコントロールできないものであるにも関わらず)、つまらないことで自分が不利益を被る羽目にならないかあらかじめサーベイしておきたい欲望(私はこれがなかなかできない・・・)といたところでしょうか。
こう書き出してみると、内田樹さんのような古き良き「親父」的能力が私、そして多くの同世代人には足りないのだな、と感じました。それは時代背景を考えるとやむを得ないのかも知れません。
せめて、自分自身のこういった能力(の欠如・不足)をメタに認識して常に修正をかけられるように意識して行く事なのかなと。

「批判されないこと」というのは、厚労省に限らず、日本人の割と普遍的な行動規範だと思います。

岩田先生のように批判されることを恐れない人は、日本では少数派でしょう。

だからこそ、岩田先生のブログは、見ていて面白いのですけどね。

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