最近のトラックバック

« 成熟しつつ | トップページ | 久々のIDSA »

翻訳の話

 海外だと時差ぼけが激しいので、夜中に目が覚めると原稿を書くか本を読む。今は翻訳をやっている。一所懸命訳す。
 翻訳は素晴らしい勉強方法である。翻訳対象(サブジェクト)の勉強になり、英語の勉強になり、そして日本語の勉強になる。一気に3つの勉強ができるという素晴らしい営為だ。
 この日本語の勉強である、という点を意識していない訳者がとても多いのが残念である。したがって、日本語に訳された医学書は(たぶん、哲学書も)本当にひどい日本語が多くて困る。自分で声に出して読んでみて、自然に聞こえるかどうかが大事である。翻訳とは一つの創作である、ということが分かっていないのである。だからこそ翻訳は快楽であるのに。
 訳した専門書を非専門家が読めない大きな理由は翻訳の稚拙さにあると僕は思う。外国では日常的に使われている語をわざわざ誰にも理解できない言葉に変化させる。学術界でしか通用しない言葉にしてしまうから、「俺たちだけの」本になる。こうしてアカデミズムの狭量さが発揮されるというわけだ。
 likelihoodは「らしさ」と和語に訳せば問題ないのに、なぜ「尤度」と普通の人には読めないし書けないし、意味も分からない言葉に直すのか。そのセンスを大いに疑う。strategyは常識的には戦略である。方略といわれて何のことか分かる一般人はいない(いれはそれは一般人ではない)。
 日本語は英語からは遠い言語である。だから、日本人が英語が苦手なのもある程度は仕方がない。日本人は語学力がない、というのはウソだと僕は思う。北京にいたとき、日本人の中国語習得力は他の国の人に全然劣っていなかった。漢字のできる日本人のアドバンテージがあり、その分中国語と日本語にある程度の「近さ」があったのだろう(言語学的な話ではありません)。ドイツ語をしゃべるイタリア人、英語をしゃべるドイツ人は多いが、日本語ぺらぺらな西洋人は(最近増えたけど)比較的まれである。ゲーテは英語を1ヶ月でマスターしたと言うが、日本語はそんなに簡単にマスターできなかったはずだ。あと、イギリス人やアメリカ人が語学苦手なのは(移民もとの言語を除く)ニーズが欠如していることから来る、単なる怠慢である。
 いま、ヘーゲルの「精神現象学」とカントの「実践理性批判」を英語版で読んでいる。英語の方が読みやすいと鷲田さんが書いていたのでだまされて読んでいる。まあ、正直言って英語だから楽になったと言うことはないが、少なくとも使用されている単語のほとんどは日常単語なので「単語」が分からないということはほとんどなく、辞書を引く必要もほとんどない。ペーパーバックの小説の方がよほど辞書を要する。
 DOVER版が出たのは1931年のことであり、基本その英語がそのまま今でも通用している。もちろん、その英語はやや古風で分かりづらいけれども、今でも読める翻訳であるのがすごい。ドイツ語から英語への変換はわりとオートマティックで変更の必要が小さいからだろう。
 これがドイツ語から日本語になると、一所懸命翻訳を工夫しなければならないから、どんどん改訳がでる。「良い翻訳」とか「悪い翻訳」とかがあるのは、いかに西洋語と日本語が離れており、その変換に工夫と技術と努力を要するかということだ。
 西洋語と日本語は基本的に言語構造が離れすぎているので、逐一単語を置き換えたのではよい訳にならない。意訳と誤訳は異なると思うが、その厳密な線の引き方は難しい。オリジナルな書き手の思いが伝わらなければ、いくら文法的に語彙的にOKでも良い訳とはいえないことは、間違いない。この真意を伝えるのは日本人には苦手な人が多い(形をまねるから)が、皆無ではない。古典落語を上手に現代の人にも伝える談志家元とか、昔のジャンプマンガの精神を伝える「BAKUMAN」なんかがそうである。形をみないで、本質をみる。
 良い翻訳を希求したい。「チャンドラーよりチャンドラーらしい」清水俊二の訳なんかは、僕の中では理想である。それは逐一訳ではないが、チャンドラーの意図をもっともよく伝えている好訳である。そういえば、小池朝男のコロンボも、ピーター・フォーク以上にコロンボらしいコロンボだった。小池の声の魅力もそうだが、my wifeを「うちのかみさん」と訳したライターの功績が大きいと思う。

具体的なパールとしては、

1.英語はそのまま日本語に直すとくどくなるので、省いても意味が分かる部分はとことん省く。彼が彼の彼に、、、みたいなのは、彼を1回だけ用いてあとは省略した方が日本語らしいし、全然使わなくてもかまわないことも多い。

2.漢字を減らし、和語を用いると分かりやすい。これも程度問題ですが。

3.原稿はPDFでもらうかスキャンした方が良い。僕は紙の本も好きだが、こと翻訳するときは邪魔でしょうがない。辞書もパソコン内のeijiroにしたほうが楽で、昔みたいに紙の辞書をちまちま引いていたときは隔世の感である。紙の辞書も個人的には愛着があるが、こと翻訳時には邪魔なだけである。

マックのスクリーン上に、テキストエディタ、原書のPDF、eijiro、ネットのブラウザがあれば、ほとんどの仕事は両手を離さずできる。

« 成熟しつつ | トップページ | 久々のIDSA »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

>英語の方が読みやすいと鷲田さんが書いていたのでだまされて読んでいる

ハイデガーもヒュ-バート・ドレイファスの解説本『世界内存在』(産業と書、2000)の方がわかりやすいので、それはあるかも?

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1038674/37319441

この記事へのトラックバック一覧です: 翻訳の話:

« 成熟しつつ | トップページ | 久々のIDSA »

2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ