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他者の言葉を受け止める その2

では、反乱する情報の洪水の中で、いろいろな人がいろいろなことを言い、そのうえ「誰が」(どのようなバックグラウンドでどのようなコンテクストで)ものを言っているのか分からない場合、何を判断のよりどころにすべきか。

熟練したドクターに不明熱のDVDを面白かったよ、と言われると、ああこれは作って良かったなあ、と心から思う。ターゲット・オーディエンスにきっちりメッセージが届いたからだ。

感染症の教科書なんて一回も開いたことがないけど、BSLで回るから、とりあえず先生の「マンガ」だけ読んできました。分かりやすかっす。といわれるとこれも嬉しい。あなたのために、この本は書いたんだよ。

小学生が「頭が毒入りリンゴになったわかものと王国の話」を一気に読んで「面白かった。これ、また食べたら頭がリンゴになるの?」とか言われると本当に嬉しくなる。このコメント一つで、絵本のプロが「これ、子どもに意味分かるかなあ」とか「批評」されても全然気にならなくなる。意味なんて分からなくたっていいんだよ。

ターゲット・オーディエンス。この概念を「ヒョウロンカ」は忘れがちである。ついつい「自分の目線」で「自分の立場」で「自分の価値観」で語ってしまう。ターゲット・オーディエンスからのフィードバックは(ポジティブであれネガティブであれ)大変役に立つ。

コメントで教えていただいた大矢博子さんのKAGEROU評は、そういう意味では希有な「だれにとっての」という視点をきちんともったものだった。

http://www.namamono.com/blog/files/101216.html

今、竹中平蔵さんの「経済古典は役に立つ」を読んでいる。実に面白い。森嶋通夫ファンなので、久しぶりにアダム・スミス、マルサス、リカード、マルクスなどを振り返ってよいエクササイズになった。

内田樹さんにせよ、竹中さんにせよ(そして僭越ながら僕もそれを目指しているのだが)、歴史を「その時の目線」「その時の立場」で追体験しながら論じている。「今の目線」で「後付けの説明」を決してしない。アダム・スミスはなぜ当時「見えざる手」と言ったのか、とても分かりやすく理解できた。

竹中さんはケインジアンか否か、という「分類」による「立場」作りを批判する。政権内にいたときずいぶん苦労されたのだろう。言われるように(医師にも評判悪いが)竹中さんは政府はなんでもかんでも小さければよいと考えていたのではなさそうだ。そのような「小さい政府」vs「大きい政府」的な物語の切り方は多くの人が、そしてマスメディアが好んで使う話法だが、それでは問題は分からない。もちろん、予防接種もそうだ。

それにしても、思うに経済の古典を書く人って語り口が徹底的に演繹法である。こうなるからこうなるはずである、という話法である。そして初期入力値や予測の枠外にあった「不測の出来事」が未来に起きるために予測は外れるのであった。経済学、教育学、そして医学も演繹法的論法(だけ)では限界があるのだ。

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