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日記・コラム・つぶやき

ブログ試験的に移行。。。

諸事情でブログを引っ越ししておきます。まだ試行錯誤なのですが、MTも検討して、結局TPで試してみることにしました。ごらんくださいませ。

http://georgebest1969.typepad.jp/blog/

ホメオパシー論争に関するRonzaの記事(推奨)

久保田裕さんの記事である。とてもよくできている。なぜ、よくできていると思うかというと、

1.署名記事である。
2.始めに結論ありきではなく、両論併記している。レメディーが危険、みたいな安易な(そして間違った)ホメオパシー「たたき」になっていない。
3.データの信頼度について価値判断をしている(ここにこんなデータがあると吟味もせずに投げ込んでいない)。
4.成功体験は当てにならないことを看破している。
5.情報が「言っていること」ではなく、情報が「示唆していること」をきちんと分析している。
6.断定口調ではなく、長い考察となっている(これは紙ベースの新聞では困難な方法)。
7.謝罪している(すばらしい!)。

是非読んでみてください。
http://astand.asahi.com/magazine/wrscience/2010122800018.html

日本のジャーナリズムもまだ捨てたもんじゃないですね。朝日新聞社も立派な記者さんはたくさんいます。なのにーなーぜー(古い)。

HPVワクチン接種によりSLEになるか?因果関係と前後関係

Jeanさんよりコメントをいただきました。通常、僕は個人的な医療問題についてブログでお話することはありません(うまくいかないことが多いからです)。しかし、このお話は一般的な問題を含んでいるので、あえてここでお話します。

いただいたご質問は、

「子宮頸癌ワクチン摂取を契機にSLEを発症した女の子がいました。まれなケースでしょうけど。アジュバントとかが影響するのでしょうか」

でした。結論から申し上げると、

そのワクチン(アジュバント含む)がSLEの原因ではないと思います。少なくともその可能性は低いです。

では、その理由を説明します。

ワクチンを打った後、いろいろな病気にかかる人がいます。SLEのような自己免疫疾患というグループの病気になる人も知られています。いわゆる子宮頸癌ワクチンを打った後で、スティル病とか、ITPと呼ばれる自己免疫疾患になったという報告も出ています。

ワクチンを打った後病気になったりすることを「有害事象」と呼んでいます。問題は「有害事象」と「副作用」は同じではないということです。有害事象はワクチンを打った「後で」起きた病気(など)、副作用はワクチンを打った「から」起きた病気(など)を意味します。難しい言葉を使うと、前者は前後関係、後者は因果関係を表しています。

前後関係と、因果関係は違うものです。ここは大切な点です。

おもちを焼く。おもちがぷくーっと膨れる。これは因果関係です。おもちを焼いた「から」おもちはふくれたのです。そして、おもちを焼かなければおもちはふくれません。

おもちを焼く。郵便配達さんが年賀状を届けてくれる。これは前後関係です。おもちを焼いた「後で」年賀状が届いたのであって、おもちを焼いた「から」年賀状が届いたのではありません。仮におもちを焼かずにあんパンを食べていても年賀状は届いたのです。

前後関係と因果関係の違い、おわかりいただけたでしょうか。

さて、「子宮頸癌」ワクチンを打ったあとでSLEになった人のことは報告されています。が、おそらくそれはワクチンを打ったあとにSLEを発症した、つまり「前後関係」であり「因果関係」ではなさそうだと考えられています。どうしてそういうことが言えるのかというと、このワクチンを打った後でSLEになった人と、プラセボ(ワクチンに見せかけた偽ワクチン)を打った後でSLEになった人の数を比べてみたら、違いがなかったからです。英語ですけど、そういう論文が出ています。この論文でHPVと書いてあるのが「子宮頸癌ワクチン」のことです。

http://qbit.cc/blog/wp-content/uploads/2009/09/oil-adjuvant-safety-GSK.pdf

因果関係と前後関係はとても間違えやすいのです。僕たちはしばしば起こったことに「因果」を見つけようとします。ワクチンを打った後こんな病気になった、、、、という事例はたくさんありますが、その多くは「前後関係」でした。でも、親御さんにとって(あるいは本人にとって)はとてもショックな出来事なので、「これはワクチンのせい」とどうしても考えたくなってしまうのです。

さて、僕は先に

そのワクチン(アジュバント含む)がSLEの原因ではないと思います。少なくともその可能性は低いです。

と書きました。なんか歯に物のはさまったようなあいまいな言い方ですね。

というのは、副作用って難しいんです。今は分からなかったことが科学が進歩すると分かることがあります。今現在の科学では「子宮頸癌ワクチン」が原因でSLEになったりしないと僕は思いますが、「絶対に」ならないとは限りません。将来科学が進歩したら、そういう発見が起きるかもしれません。だから、僕は「可能性は低い」という腰がひけたような言い方しか出来ないんです。

さて、できるだけ簡単にご説明したつもりでしたが、ずいぶんとくどくどした、うっとうしい、回りくどい説明になりましたね。申し訳ありません。でも、医学について語るとき、僕らはこのような形でしか語ることが出来ないんです。

医学とか教育学とか、こうした複雑な人についての学問は、数学とか物理学みたいにクリアカットでないことが多いのです。分かりづらいのです。説明しづらいのです。どうがんばっても、そうなってしまいます。正しく伝えようとすればするほど、回りくどい言い方になってしまいます。

逆に言うと、新聞とかテレビで流されている医学の情報はとても分かりやすいですよね。「○○を飲むと健康になれる」とか「こうすれば癌にならない」とか、「このワクチンで副作用が多発した」みたいな断言的な口調です。

断言的な口調には要注意です。断言できっこないことを断言しているからです。残念ながら、テレビ番組の医学情報はほとんどでたらめか、おおげさか、まぎらわしい情報で、正確なところが伝わる番組はごくわずかです。医学における新聞記事もほとんどがでたらめか、おおげさか、まぎらわしいです。本屋さんに行って「健康、医療」のコーナーに行くとき、「癌にならないためのなんとか」みたいな本も、ほとんどでたらめか、、、、以下同文です。信じがたい話かもしれませんが、そうなのです。

テレビや新聞の人たちが、自分たちの語り口を変えようと自ら変わろうとしない限り(僕はそれ以外にテレビや新聞が生き残る道はないと思っていますが)、少なくとも医学に関する限り、もしJeanさんが正しい情報を得たいと思うのなら、テレビでみのもんたさんたちがしゃべっていることも、新聞の社説や記事で書かれていることも、いっさい当てにしないほうが、うまくいく可能性は高いです。

いずれにしても、SLEを発症したその方の治療がうまくいくことをお祈り申し上げます。

大学病院における初期研修医のダウンサイジングを

注・以下に述べる「大学病院」はある特定の大学病院のことで、必ずしも全ての大学病院に当てはまるわけではありません。「うちはそんなことないよ」という方は、さらっとスルーしてください。あと、ここに出てくる「50代、60代」も全ての50代、60代に当てはまると主張しているわけではありません。「俺は違うよ」とおっしゃる方は、やはりさらっとスルーをどうぞ。

研修医のマッチングが終わったとき、必ず話題になるのが、「民間病院」と「大学病院」どっちにたくさん研修医がマッチしたかという話題である。

まったく意味のない比較である。

そもそも両者は病院数が圧倒的に違うのである。比較母体が全く違う中で、両者を比較し、その数の多寡を競う理論的な根拠を教えて欲しい。あれは、民間病院側と、(むしろこちらの方が強いであろう)大学病院側のヘゲモニー争い、「俺の方が勝った」「おまえが負けた」という世界観の表層でしかなく、実質的にはなんの意味もない。

あの「俺が勝っておまえが負けて」という発想は実に昭和的だ。今の50代、60代を支配している(そろそろその世界観から抜けちゃっている賢明な諸氏もおいでですが)メンタリティーである。右肩上がりのメンタリティーである。白髪の小児のメンタリティーである。他者に対する優位という形でしか自己の向上をメジャーできないメンタリティーである。いい加減、研修関係緒会で今年は大学病院と民間病院どっちが勝った、というグラフを示すのはやめませんか、皆さん。

そもそも、数をそろえていればそれでよい、ということにはならない。むしろ大事なのは研修医の質であり、研修の質である。

データを見れば容易に理解できることであるが、質の高い研修を提供していると目される病院はその臨床規模が大学病院クラス(あるいはそれ以上)であっても、採用する研修医数は圧倒的に大学病院より少ないことがほとんどである。

では、大学病院はそのような病院をはるかに上回るような卒後教育上のリソースを持っているか。もちろん、答えはノーだ。質的にも量的にも、大学病院が初期研修医に提供できる教育リソースは、少なくとも良質な民間病院よりも圧倒的に劣る。

大学病院はダウンサイジングをしなければならない。初期研修医の採用数を減らさねばならない。そのリソースに見合っただけの研修医を採用し、彼らにもっと質の高い教育を提供しなければならない。数を稼ぐという「昭和的な」発想はそろそろ捨てるべきだ。

大学病院では指導医が足りないから、医局にスタッフを引き上げる。これが地域医療を荒廃させていると指摘させて久しい。研修医の採用数を減らせば、身の丈にあった教育が提供でき、その分、「引き上げねばならない」スタッフも減る。

もともと、大学病院における研修医は体のいい「雑用係」であった。雑用に教育的な意味があるかという問いはここでは議論しない(何をもって雑用とするかもここでは議論しない)。「教育をさせる」という意図ではなく、「雑用をさせるための人足」として研修医を見なしていたことそのものが問題なのだ。

ダウンサイズした研修医がもたらす「必要なマンパワーの枯渇」は他の医療職(クラークやナースエイドのような)を充填させれば良い。足りない分だけ補うのだから、「研修医がどこまで雑用をするか」という観念的な議論は消失する。指導医の消耗も減る。地域からの引き上げも減る。大学病院が小さなプライドを捨てて、ダウンサイジングという「非昭和的」価値観を受け入れれればよいだけの話だ。そもそも、雑用そのものも減らしていかねばならない。「コンプライアンス」「コンプライアンス」と手続きばかり気にしているとどんどん手続き的負担,burdenが増えていく。しかし、よくよく注意していくと、減らせるもの、減らすべきものはたくさんある。

初期研修医を後期研修医(ニアリーイコール医局員)への予備軍と見なしており、彼らの供給を減らしてはならぬ、という意見もある。しかしこれも物量的、右肩上がり的な昭和の発想である。疲弊し、消耗し、絶望した指導医を目の当たりに見て研修医がその医局の門をたたきたいと思うだろうか(そういうMな人ももちろんいますが)。そして、そのようなクールでニヒルな初期研修医の立ち居振る舞いを見ていて、学生は「ここに残りたい」と希求するだろうか。「数」はすでにチャーム(魅力)ではないのである。

初期研修医に提供すべきは優れた指導医である。活き活きとしたロールモデル、「俺もいつかはこんなになりたい」というロールモデルである。そのモデルを目指してがんばる研修医に学生はあこがれる。屋根瓦とは下方的な教育システムとして認識されがちだが、この「あんなふうになりたい」というあこがれの情は、一種の上方的な屋根瓦である。

「こんなところにはさすがに入りたくない」と学生や研修医に思わせてはだめなのである。

「こんなところ」かどうかは、医療機能評価も、そのエピゴーネンたる臨床研修何たらも教えてはくれない。そこにはメジャラブルな要素は全くなく、そして彼らはメジャラブルなものしか目に留めない。

優れた研修病院は、一歩足を踏み入れただけで、「ああ、ここは研修医にとって幸せな病院だな」と分かる。もちろん、分かる。そのくらいの感性がなくて指導医やってられるか。メジャラブルなものに拘泥するということは、要するに「おれはよい研修も良い研修医も察知する身体能力を持っていません」とカミングアウトするようなものである。異性に惚れるときにスコアリングシステムを使って相手を選ぶバカがどこにいる。

そのような「一歩足を踏み入れただけで分かるよい研修病院」を目指して、毎日どろどろぐずぐず現実のヌカルミをもがくのである。脚は泥水に突っ込んでいるが、決してまなざしを下げてはならないのである。見つめるのは常に夜空の星だからである。

こんなことを「沈む日本を愛せますか?」のダウンサイジングの議論を読んでいて思ったのだった。ああ、そうか。高橋源一郎さんとか内田樹さんとか、60年代のエートスを正当に継承している人たちもいるのだから、テレビの政局や新聞の社説を見て、50代、60代に絶望するのはまだ早いのですね。

多いとはどういうことか(子宮頸癌ワクチン副作用多発?)

よく誤解されるが、大小とか多少という数値評価の概念は主観的なものである。客観的な基準は存在しない。血圧が高いというのも、給料が安いというのも、内閣支持率が低いというのも(ときには下がったというのも)すべて主観的な判断である。だから、僕は新聞記者さんたちに「多いというなら、何をもって多いのか根拠を示してください」とお願いする。この問いに答えられるマスメディアのジャーナリストは、僕の知る限り希有である。そもそも、「根拠を示してください」という問いそのものに慣れていないように見受けられる。

我々は数字を使うと客観的で主観の入っていない言説をしているような錯覚に襲われる。

12月28日、読売新聞の記事、見出しは「子宮頸癌ワクチンで副作用、多発」である。

(引用)
 子宮頸(けい)がんワクチンの副作用として、気を失う例の多いことが、厚生労働省の調査でわかった。

(中略)昨年12月以降、推計40万人が接種を受けた が、10月末現在の副作用の報告は81人。最も多いのが失神・意識消失の21件で、失神寸前の状態になった例も2件あった。その他は発熱(11件)、注射 した部分の痛み(9件)、頭痛(7件)などだった。(引用終わり)

さて、「多発」、つまり発生が多いというからには、「多い」とはどのくらいのことか、と定義しなければならない。40万中の81は「多い」のか?多いというからには、何を根拠にそういうのか?「他のワクチンと比べて」そうなのか?その利益を凌駕するくらい多いのか?と考えるのが普通である。

もちろん、言い訳はできる。「頭痛や発熱よりは多かったじゃないですか」というのである。その小学生的な屁理屈を百マンボ譲って認めたとしても、「多発」というのは絶対的な言説であるから、どちらにしても見出しの正当性は担保されない。例えば、「読売新聞で「誤植」が多発」と言ったとして、「いやいや、捏造やデマや誤情報よりは多いでしょう」と言い訳したら、とてもいやな顔をするに決まっている(もちろん、僕はそんなイヤラシイことは言いません)。

もちろん、これは定型的な新聞記事である。このように書きなさいと先輩に教えられたプロトコル通りの記事であり、「コンプライアンス上は」なんの問題もない。手続き的には「正しい」記事である。これは新聞記事だけでなく、医療でも教育でも何にでも応用できるけど、「手続き的には間違ったことをしていません」という言説が、いかに人の知性を劣化させるかの証左なのである。

他者の言葉を受け止める その2

では、反乱する情報の洪水の中で、いろいろな人がいろいろなことを言い、そのうえ「誰が」(どのようなバックグラウンドでどのようなコンテクストで)ものを言っているのか分からない場合、何を判断のよりどころにすべきか。

熟練したドクターに不明熱のDVDを面白かったよ、と言われると、ああこれは作って良かったなあ、と心から思う。ターゲット・オーディエンスにきっちりメッセージが届いたからだ。

感染症の教科書なんて一回も開いたことがないけど、BSLで回るから、とりあえず先生の「マンガ」だけ読んできました。分かりやすかっす。といわれるとこれも嬉しい。あなたのために、この本は書いたんだよ。

小学生が「頭が毒入りリンゴになったわかものと王国の話」を一気に読んで「面白かった。これ、また食べたら頭がリンゴになるの?」とか言われると本当に嬉しくなる。このコメント一つで、絵本のプロが「これ、子どもに意味分かるかなあ」とか「批評」されても全然気にならなくなる。意味なんて分からなくたっていいんだよ。

ターゲット・オーディエンス。この概念を「ヒョウロンカ」は忘れがちである。ついつい「自分の目線」で「自分の立場」で「自分の価値観」で語ってしまう。ターゲット・オーディエンスからのフィードバックは(ポジティブであれネガティブであれ)大変役に立つ。

コメントで教えていただいた大矢博子さんのKAGEROU評は、そういう意味では希有な「だれにとっての」という視点をきちんともったものだった。

http://www.namamono.com/blog/files/101216.html

今、竹中平蔵さんの「経済古典は役に立つ」を読んでいる。実に面白い。森嶋通夫ファンなので、久しぶりにアダム・スミス、マルサス、リカード、マルクスなどを振り返ってよいエクササイズになった。

内田樹さんにせよ、竹中さんにせよ(そして僭越ながら僕もそれを目指しているのだが)、歴史を「その時の目線」「その時の立場」で追体験しながら論じている。「今の目線」で「後付けの説明」を決してしない。アダム・スミスはなぜ当時「見えざる手」と言ったのか、とても分かりやすく理解できた。

竹中さんはケインジアンか否か、という「分類」による「立場」作りを批判する。政権内にいたときずいぶん苦労されたのだろう。言われるように(医師にも評判悪いが)竹中さんは政府はなんでもかんでも小さければよいと考えていたのではなさそうだ。そのような「小さい政府」vs「大きい政府」的な物語の切り方は多くの人が、そしてマスメディアが好んで使う話法だが、それでは問題は分からない。もちろん、予防接種もそうだ。

それにしても、思うに経済の古典を書く人って語り口が徹底的に演繹法である。こうなるからこうなるはずである、という話法である。そして初期入力値や予測の枠外にあった「不測の出来事」が未来に起きるために予測は外れるのであった。経済学、教育学、そして医学も演繹法的論法(だけ)では限界があるのだ。

他者の言葉をどう受け止めるか

 KAGEROUという本がAMAZONなどでものすごい批判を浴びているらしい。今日、本屋で手に取ったが強く食指を動かされなかったので購入しなかった。無論、読んでいるわけではないので「だめだ」と思ったわけでもない。

 面白いもので、本というのは読んだ後に初めてその評価が出来るわけで、買うときはその評価がないままに買うのである。無論、昔読んで読み返したくなって、、なんていうときもあるが。他人の評判、書評、直感を当てにしたり、ファンの新刊を買ったりするが基本的には「賭け」である。賭けである以上、百戦百勝というわけにはいかず(そういうのは賭けとは呼べない)、ときどき「はずれ」もある。学生の時にはもったいないからそれでもがんばって読むが、今はさらっとあきらめる。外れを恐れていては本などは買えない。

 新書など実用書なら本屋でぱらぱらめくれば大体「あたり」をつかめるが、小説ではそうは行かない。事実、KAGEROUもぱらぱらしたが、その時点でこれが良い小説かそうでないかは分かりようがなかった。

 AMAZONなどのコメントは愚にも付かないものが多い。匿名コメントの特徴である(もちろん、すべての匿名コメントがそうというわけではない。「特徴」とはその全てを網羅する必要はないのだ。「男ががさつだ」というのは男の特徴をよく言い表しているが、100%そうであるわけではなく、そこで揚げ足を取るのは単に小児的な態度である)。

 例えばそのなかに、「字数が少ないからけしからん」というものがある。実は、プロの出版者でも「字数の多さ」や「手間ひまの掛け方」で本を評価する向きがある。しかし、字数が多ければよいのなら、電話帳か何か買えばよいのである。O・ヘンリーよりはプルーストの方が圧倒的によいということになる(もちろん、そう考える人もたくさんいるでしょうね)。しかし、プルーストの小説がたとえ20世紀最大の作品であろうと、AMAZONを利用する大多数の読者はあの小説を読破できないだろう。表向きはどう言うかわからないが、心の底ではあの「失われた、、、」を「つまらない」と感じているはずだ。僕が大学生だったときそう感じたように。

 この数週間、チャンドラーの「リトル・シスター」(村上訳)、「百年の孤独」、「ねじまき鳥クロニクル」の1,2巻を読む。どれも偉大な小説だ。とても面白い。しかし、リトル・シスターは所見ではここまで細かくその良さが分からなかったし(最初は英語で読んだ)、賭けてもいいが(こんなところで賭けても仕方ないけど)5年前に「百年の孤独」を読んでも僕には何が面白いのかさっぱり理解できなかっただろう。「ねじまき鳥」に至っては、俺は何を読んでいたのかと思うくらい初見では何も何も理解していなかった。2010年の今再びこの小説を読んで、心を振り回され、魂を鷲掴みにされ、苦痛に顔がゆがみ、また涙が出る。本当にすごい小説である。本当にすごい小説である、と感じるのに僕は40年近くも無駄に生きていなければいけなかったのである。

 発表時点で、「他者」が何を言っているのか、それがほんとうにあてになるのだろうか。ストラビンスキーの「春の祭典」の初演のように。村上春樹だって30過ぎるまでは小説が書けず、その書いた最初の二作も著者本人には不満の残るものであった。KAGEROUが今後どのように評価されるのかは読んでいない僕には分かりようがないが、少なくとも「今」の評価が未来を保障しない、という普遍的事実は分かる。この喧騒をどうとも言い様がない。

 いずれにしても、この小説を書いた著者にはデビュー作である。数多くの「罵倒」が妥当なものであれ、不当なものであれ、彼に良い影響を与えるとは考えづらい。そういう意味では非建設的な匿名コメントたちである。社会もどの特定の個人もなんら益することはなく、ひたすらトイレットペーパーのように物質を浪費し、時間を浪費し、自分たちの溜飲を下げ、自己満足に浸るだけの空虚な行為である。自らの品性を下げる行為でもある。匿名であるからその名誉が泥にまみれない、ただそれだけの話である。とくに、そのようなコメンテーターがその一方で「人は褒めて育てねばならぬ」とか言っているのをきくと、さすがにその偽善ぶりに嘔気を感じる。

 インターネットが普及して、このような「評論」の数は天文学的に増えている。他者の言葉が増えている。他者の言葉はどう受け止めるべきか、その判断が難しい時代である。本を書いたりしていると、そのような「他者の言葉」がいろいろな方向から入ってくる。書いた当人はまさか本人が目にするとは思っていないだろうこともあるが、そこはインターネットであり、ふと目に付くこともあるのだ。ツイッターやフェイスブックでなされる一種の「陰口」も本人の目に留まる。一番簡単なのは、「鈍感」になることである。その言葉に痛痒を感じない鈍感な人間になるのが一番簡単である。今の時代、厚顔無恥であることが一番らくちんなのである(こうしてある種の人々は厚顔無恥を獲得していったものと想像される)。

 しかし、感受性をなくしては医者として生きていく資格がない。その言葉の突き刺す痛みを自覚する感受性を維持しながら、それでも倒れないこと。恐怖に震え、自らの無知と無力に絶望視、屈辱に歯がみし、憎悪を必死に押さえ込み、孤独を受け入れ、それでもクールにタフに生きていくこと。今くらいタフに生きることが困難な時代はない。今くらいタフに生きていくことの価値が高い時代もない。

Dr岡田のワインクリニック

ケアネットで無料配信していることを教えてもらいました。それにしても岡田先生は相変わらず博覧強記で、しかも教えるのが上手ですね。「ブルゴーニュとバーガンディは日本とジャパンみたいなもの」、なんてとてもすてきです。コルドン・ブルーを卒業されていた、というのも初めて知りました。僕みたいな味音痴には、本当うらやましい限りです。パートナーの小笠原先生も相変わらずの聞き上手です。あの、「私は何も知らないので、これについて教えてください」と適切な問いを立てるのには、実は高い知性を要するのです。観てる人はほとんど気がついていないと思うけど。

その表現は差別的か

物を書いていると、「それは差別語だ」「差別的表現だ」と難じられることがある。

こういうとき、僕が感じるのは徹底的に圧倒的に、嫌悪と軽蔑の感情だけである。こういう半ちくなことを言われると、心底うんざりする。

僕が子供のころ、母親は小説をカセットテープに吹きこむボランティアをしていた。目が悪い人でも読書を楽しめるように、というものである。ところが、ある小説に「めくら」という言葉があって、そのボランティア団体はこれを別の言い方に変えるよう規定していた。昔の話だが、このように記憶している。

僕はその時それを聞いてあきれかえったものである。第一に、それは盲目の人間が「オリジナルな小説ではどのように表現されているか」知るチャンスを奪っている。知らぬは彼らだけであり、そこにラテラリティーが生じる。第二に、「めくら」という言葉が使われたその経緯や文脈を、目が見えない人間には斟酌して理解して判断する能力がない、と目の見える側が勝手に判断したことになる。要は、バカにしている。これくらい差別的な行為はない。

僕はある本で、テレビドラマのドクター・ハウスを紹介し、「彼はびっこをひいて」と書いた。これが問題視された。問題視した、ということは「びっこをひく」ことそのものに差別的な文脈をかぎとったからなのだろう。

腰椎穿刺をするときの有名な格言に「腰椎穿刺をしようかな、と迷ったときが腰椎穿刺をするときだ」というものがある。逡巡そのものがそのインディケーションなのである。同様に、「この表現は差別的なのではないか」と逡巡したことそのものが、その人に差別的な感情、意識が内包されていることを看破しているのだ。

僕にとって、「彼はびっこをひいて」という物言いは、「彼は頭をぼりぼり掻いて」とか「彼は懐に手を入れて」といった使い方と全く構造的に同じである。完全にニュートラルな表現だ。そこに差別的な匂いを嗅ぎ取る人だけが、それを問題視するのである。

僕は子供の時、自分の身体的特徴を嗤われ、いじめられた長い経験を持つから、身体的特徴を嗤われることがどのくらい人を傷つけるかよく承知している。人をあざ笑ったり、さげすんだり、身体的特徴を嗤うことには人一倍神経質だし、それを心の底から嫌う。

が、このような言葉の揚げ足取りをするのは多くの場合当事者ではない。「子供は差別的だから、子どもと表記しろ」とヒステリックに言ってくるのはほぼ100%大人だし、「びっこ」はけしからんと口角泡を飛ばして糾弾するのも、びっこを引いていない連中だ。彼らこそが自らの差別的意識、差別的感情に気がついていないのである。こんなやつらに四の五の言われる覚えはない。

愛情の有無はその相手をおとしめる表現を自然にでき、また許容できるかにかかっている。「火炎太鼓」で道具屋の妻が夫に「おまえさんはバカなんだからね」というとき、そこには夫に対するこれ以上ない慈しみ、愛情が込められている。「あなたは認知機能に若干の、慢性的な機能低下を認めています」なんて妻に言われたら、その夫婦はとうのむかしに終わっている。イギリス人がフランス人を「フロッグ・イーター」と読んではばからないのも、両者の信頼関係が強固であることを示している。日本人は朝鮮人をさして「いぬぐい」とは絶対に絶対に言わないのも、両者の間に全くといっていいほどの信頼関係が築けていないからなのだ。それさえあれば、どのような呼称も全く問題にはならないのである。このことは、「どう呼ぶべきか」と頭を悩ませる行為そのものの差別性を如実に示している。

海辺のカフカの、大島さんのせりふを再掲する。

「僕がそれより更にうんざりさせられるのは、想像力を欠いた人々だ。T・S・エリオットの言う<うつろな人間たち>だ。その想像力の欠如した部分を、うつろな部分を、無感覚な藁くずで埋めてふさいでいるくせに、自分ではそのことに気づかないで表を歩きまわっている人間だ。そしてその無感覚さを、空疎な言葉を並べて、他人に無理に押しつけようとする人間だ。つまり早い話、さっきの二人組のような人間のことだよ」

「ゲイだろうが、レズビアンだろうが、ストレートだろうが、フェミニストだろうが、ファシストの豚だろうが、コミュニストだろうが、ハレ・クリシュナだろうが、そんなことはべつにどうだっていい。どんな旗を揚げていようが、僕はまったくかまいはしない。僕が我慢できないのはそういううつろな連中なんだ」

「想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこには救いはない」

「現代霊性論」での、ある市が六曜の載ったカレンダーを全部回収した、という話を聞いたエピソードを聞いた時男内田樹さんのことばも再掲したい。

「僕はその新聞記事を読んだとき、かなり激怒しましたね。その抗議した市民に言ってやりたい。じゃあ、あなたはカレンダーに曜日が印刷されていることにも反対するのか、と。だって、七日に一日安息日を設けるというのは、ユダヤ=キリスト教の定めた戒律ですからね。その人が自分の家のカレンダーを「曜日のないカレンダー」にしているというのなら、話はわかる。子どもの通う学校や、自分の勤め先に「日曜日に休むのは宗教儀礼でおかしいじゃないか。教育やビジネスに宗教を持ち込んでいいのか」と主張して、日曜も休まず出勤して断固闘っているというのなら、話はわかる。でも、自分はそんなことしていないわけでしょう。自分が現実に生活している場所での宗教儀礼は見過ごしておいて、関係ない他人の宗教儀礼に文句をつけるというのでは、ものの理屈が通らないでしょ。僕、こういう半ちくなこと言う人間が虫酸が走るほど嫌いなんです」

東京でお仕事

東京で仕事をしたり、遊んだりしていた。浅草演芸ホールにいったりして命の洗濯をした。僕の知らない面白い芸人をたくさんみつけた。正蔵は、、、ファンの人はごめんなさい、絶望的なくらい下手だった。先代の正蔵はCDでしかしらないが、、、、うーん。そのとき、なぜか無性に鰻が食べたくなり、お店に行く。その後、「Best of 東京いい店、うまい店」という本を教えていただくと、そこにその店「小柳」があった。こういうのをシンクロニシティーというのだろうな。

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