最近のトラックバック

感染症の歴史を考える

耐性菌の歴史を俯瞰する

20世紀前半に重症感染症の行く末を劇的に変えたのが抗菌薬です。当時の医療者は、それはたまげたことでしょう。

ところが、その抗菌薬のなかった時代に逆戻り、という事態が現実に起きています。私個人も抗菌薬がアウトの緑膿菌で患者さんが絶命するに至り、強い無力感に歯がみしたことがあるので、私にとって、これはとてもリアルな問題です。

感染症対策の歴史を俯瞰する作業を今行っています。人間は歴史に学ぶことが出来るか。あるいはバーナード・ショウ(だっけ)が言ったように、人間とは歴史から何も学ばない、ということを歴史が教えているのか。まあ、我が身の愚かさを鑑みるに、後者の可能性の方が確かに高いかなあ、、、、なんて思いますが。

というわけで、NEJMの特集をご覧あれ。

映画と感染症

 古い映画を見ると、当時の感染症のあり方が分かって面白いです(こういう映画の見方は反則かもしれませんが)

例えば、こないだ観た「鬼龍院花子の生涯」では、母親と主人公(夏目雅子)が腸チフスにかかり、隔離されます。みな鼻と口を袂で覆い、飛沫感染、空気感染対策です。主治医は「3人に1人は死ぬ難病」で、「隔離病棟で入院」が必要と説きます。大正時代(だったっけ)はそういう時代でした。

前に観た「酔いどれ天使」では、結核がすごい難病で、患者さんは自分のレントゲン写真を持参して主治医の所へ行きます。カンボジアでカルテを患者が所持しているのを思い出しました。

今通勤時に観ているやはり黒澤の「素晴らしき日曜日」では、アパートを借りに来た主人公に、「ここはだめ、冬はリウマチに、夏は発疹チフスになる」と言われます。発疹チフス!戦後の日本ではそういう病気もあったのですね。ノミが媒介するリケッチア感染です。

と、こういうデータを集めたら楽しい論文が書けそうです。暇があればね、、、

関係ないですが、先日移動中にたけしの「監督バンザイ!」を観ました。痛い映画でした。北野監督はギャグ映画はよしておいたほうが、、、、、(シリアスなのは好きで、マイベストは「キッズリターン」ですが、他にも好きな映画は多々あります。ファンの人は怒らないでください)。

抗生物質王国の夕陽5

話はまだ続きます。次のテキストは同じ「通史」からの「薬害の顕在化」で、やはり執筆者は坂口志朗氏です。ここで、抗菌薬の歴史的な流れと「薬害」との絡みを考えます。

ペニシリンはヨーロッパで、アメリカで医療現場に驚愕をもたらしました。目の前の患者がどんどんよくなっていく、というので40年代の医師達はあからさまにパラダイムシフトを経験したのでした。そのはなしは、しました。

1950年代から、「感染症は終わった。次は成人病とその合併症だ」という気運が高まります。感染症は抗生物質の誕生と共にそのプライオリティをぐんと下げたのです。その一方、マーケットとしての抗生物質の地位は高くなる一方で製薬産業の基盤、商品のエース扱いになります。生産量も適応もどんどん増え、現在の「鼻水が出ても抗生物質」「二次感染の予防に(なんとなく)抗生物質」と無批判な適応拡大と乱用の温床となりました。かつては「死ぬ病気を治す奇跡の薬」でしたが、鼻水に劇的に効くわけもなく、そう言う意味では抗生物質は名実共にその相対的地位が失墜していったのです。かつて、(自由診療の頃)家を売ってペニシリンのバイアルを買った、などという逸話がありましたが、皆保険と高度成長の流れで、抗生物質はビタミン剤とほとんど変わらないまでに地位を落としてしまいました。

このころ、英米では統計学的手法を用いた薬効評価が確立してきます。ペニシリンのように「見れば分かる」薬効を発揮するような劇的な薬はそうそう現れるものではありません。降圧薬、コレステロールの薬、糖尿病の薬などは、たくさんの患者を集めてプラセボと比較して初めてその効果が分かるのです。

ところが、1950年代の日本の臨床医療界はお粗末でした。「三た論法」といわれる直感と経験を頼りにした評価、「使った、治った、効いた」という「三た」を用いた形式論法で薬を評価していたのです。これは、先の「カリニ肺炎に切り札」の1987年の新聞記事を思い返しても、ごく最近まで日本で通用していた論法ですし、現在でも臨床現場では「あの薬、切れが良いんだよね」的な評価で完結してしまう(現場の感覚が無意味と言っているのではありません。そこで完結してしまうのが問題なのです)土壌を残しています。このような安易な薬の評価は、後に「薬害」という日本医療界の鬼子を生み出す温床となりました。

また、ベビーブーマーで国民人口が増大し、日本で作られる製薬は国内で消費されるようになります。この頃、国内で作られた製薬が海外に輸出されることは皆無だったと聞きます。輸出を申請しても、ずさんな承認プロセスしか経てこなかった日本の薬は英米では相手にされなかったかもしれませんが。国内だけで使われる「ローカルルール」の普及、第三者から批判される経験を持たなかった日本の医療界の閉鎖性がここで大きく問題になります。日本で完結してしまうマーケットの問題は、例えば家電などの電気製品でも同様らしく、日本は家電のマーケットで韓国に大きく水を空けられてしまうのでした(これは、「社長 島耕作」で得た知識、、、)。あと、ここからは私見ですが、日本医療界の閉鎖性、内向性が逆に海外の製薬などに対する過度な閉鎖的態度と表裏の関係になったと思います。今でも海外で作られた予防接種は日本にほとんどはいってくることがありません。韓国が輸入した麻疹ワクチンで驚異的なスピードで麻疹撲滅をしたというのに、日本では手に入らない日本脳炎や狂犬病ワクチンを輸入するという選択肢を頭から否定し、国内で患者が出ても知らん顔の態度を決め込んだのでした。

 日本では医薬品に対する物質特許を認めておらず、欧米で開発された医薬品の改良製造を行い、それで国内のマーケットを見たし、海外からの製品を否定し、国民無視の保護政策を行っていたようです。初期の自動車産業もこのような構造だったかもしれません。しかし、日本の自動車の方は海外に打って出ていく勝負に出て、今や米国のマーケットに真っ向勝負を挑んで勝てるくらいの実力を付けましたが、保護政策でぬくぬくと甘やかされた日本の製薬メーカーが海外とがちんこ勝負が出来るかどうかは、どうでしょうか。80年代からようやく日本産の薬も世界で勝負できるものもできてきました(FK506など)。過度に厳しい日本の製薬承認審査のおかげで、海外で先に商売しよう、という皮肉な流れがあったせいかもしれません。いずれにしても日本国民は全然恩恵を受けていない、、、、

医薬品は、一般の商品と違って欠陥や不良品が分かりません。目の前のワクチンや薬のバイアルが効果があるのか、ただの水なのか、それとも副作用や催奇形性があるなんて判断しようがありません。私が北京にいたとき、中国産の薬のcredibilityが大きな問題でしたが、1950年ー60年代の日本のクスリも同じような感じだったのではないでしょうか。

1950年代は、製薬の承認審査もすごく簡単で、数人の素人官僚による事務手続きだけで終わっていたそうです。これで、多くの薬が承認されたと言います。また、現場の医師は科学的検証教育を欠いてました。もっとも、今でも十分ではありませんが。ロンドン大学大学院では最初に「科学的な考え方とは何か」を学びますが、医学部や大学院でそのような根幹部分を学ぶことはなく、テクニカルな部分ばかりを学びます。だから、1950年代の日本の医師は、薬効と副作用のバランスなどもうまく検証できなかったようです。そして、技術料が低く、薬価だけが高いいびつな診療報酬体制の中で無批判無思慮な薬のばらまきが起きたのでした。

医療機関における薬の購入価格は引き下げられ、その為「薄利多売」の原理がまかり通り、コマーシャリズムの拡大によって患者も「薬好き」にされていったのもこの時代だと言います。この辺の事情は現代の米国医療と全く同じです。時代を隔てて妙なパラレルな構造が繰り返されるのですね。

このころ、精神障害者を対象に岩手の病院で抗ウイルス薬の人体実験が行われます。エピアジンというこの薬の副作用で2名の死者と十数名の重症副作用者が出て、人権軽視といった問題になります。この後、現在に至るまで臨床試験を忌み嫌う空気が日本にはありますが、この辺が遠因になっているようです。

さて、薬害の問題が顕在化したのが1956年のペニシリンショックです。尾高朝雄東大法学部長が抜歯後のペニシリン注射でショック死して、話題になりました。抗菌薬の皮内テストが義務化されるのもこうした経緯を受けてのことでした。

予防接種の副作用も問題になります。種痘などの予防接種で脳炎になった子供が増え、親たちが「全国予防接種事故予防推進会」を結成します。GHQ体制で予防接種が「強制接種」だったり、メーカーの市場確保といった邪な意図が隠れていたりと、いろいろ問題はあったようです。この辺も、現在の日本の予防接種システムの遅れの遠因かもしれません。

抗マラリア薬であるクロロキン。日本では関節リウマチやSLEに1957年から長期投与として使われるようになりました。ところが、1948年には米国で報告のあった眼障害のため、副作用に苦しむ患者が続出します。日本で学会報告が出たのが1962年。製造中止は1974年でした。当時2000人はいたというクロロキン眼障害の被害者ですが、ひどかったのは、当時の厚生省薬務局製薬科長が内服していたクロロキンを「内部情報」をもらって自分だけ服薬中止しており、かつこの情報を公表しなかったことでした。薬害エイズ事件で、官僚が実刑判決を受けて話題になり、問題になりましたが、このような役人こそが個人で実刑判決を受けるべき何じゃないでしょうか。

もっとも、クロロキンはマラリア治療薬としてはもっとも安全な薬とされています。短期で使えば問題ないのかもしれません。このへんの振り子の揺れ動きも日本の問題で、副作用が問題、となると全面拒否の方向に逆走します。サリドマイドもそうでした。

クロラムフェニコールの再生不良性貧血も、米国が副作用を問題にしてから、日本が対策を取るまで7年かかりました。

こうした流れで、サリドマイドやスモン事件が問題になり、1970年代から、日本の医薬品の審査・承認は極めて厳しくなります。その一方で、「副作用が出るくらいなら原疾患で死んでしまえ」的な本末転倒な副作用嫌悪主義もはびこるようになりました。もう一度、振り子を揺り動かして適度なバランスに持って行く必要があるように思います。


抗生物質王国の夕陽4

現在の抗菌薬運用や感染症診療に関して、厚労省(旧厚生省)各部署やその周辺機関(PMDA)のもたらした影響は大きいと思います。その役割については功罪あると思いますが、私はこれら官僚の方々への個人的な友情や敬意をもっている一方で、全体的には、あるいは組織としてはネガティブな評価のほうが大きいです。有り体に言えば、彼らが足を引っ張らなけらば、日本の感染症診療は世界のレベルからこんなに取り残されることはなかったでしょう。もちろん、彼ら「だけ」が悪いのではなく、私も含めて関係者全てが共有する問題なのですが。

で、今回は診療報酬のおさらいです。テキストに使ったのは、坂口志朗氏の「武見医師会長体制の確立」(通史 日本の科学技術第三巻)です。

・第一次世界大戦以降の社会不安
・政府、医師会との診療契約 医師ー保険者ー患者という新しい関係

この辺は、実は米国のマネジドケアを想起させます。実際、保険経済が赤字になると保険者は診療行為をコントロールするようになります。今でもそれっぽいことをやっている地域もあるようですが。

・自由診療主体だった日本の医療は第二次世界大戦時にはほとんど皆保険状態に。
・戦後、被保険者が激減。医師会もGHQに解散させられていた。
・これまで医師会に依頼していた診療報酬の議定を「社会保険診療報酬支払基金に」。1949年ーー>マネジドケアを思わせる制限医療のはじまり。医療費抑制
・1950年、中央社会保険医療協議会(中医協)誕生。朝鮮戦争で物価上昇し、診療報酬引き上げ要求。保険者代表の健康保険組合連合会(健保連)と対立。
・1957年 武見太郎医師会長に。「制限医療」を嫌い、現物給付・出来高払いにおける医師の自由裁量権を主張する。ーー>制限医療を目指す厚生省・健保連と対立。他方、医薬品産業などとの癒着も
・1961年 国民皆保険の再達成
・1973年 老人医療費無料化
・病院数増加、病床数増加。しかし医師は不足。1970年秋田大学医学部発足まで新設医大は認められていなかった。ーー>医師の相対的な不測で社会的地位は向上(?)
・武見体制は高度成長といっしょになって医療費増大ー>社会保険の赤字ー>国庫負担増額ー>国家財政圧迫というサイクルに。薬漬け、検査漬けの悪習もこのとき広がる。
・武見時代の「医療内容の改善は医学会に任せるべき」という主張は、厚生省や健保連からの規制や制限を否定する一方で、国民の声にも耳を貸さなかった側面もある、、、というのが坂口氏の見解。
・高度成長の終焉、オイルショックで医療費の伸び率が国民所得のそれを上回る。
・医師会は表面上は学術団体と謳っていたが、武見体制の実態は権益団体、ロビー団体であり、国民もそのように認識するようになった。ーー>開業医の地位の低下に?ー>実質的に開業医の団体である医師会の地位も武見体制の終焉と共に低下
・勤務医の比率増加。

しかし、医師会とは一線を画していた勤務医も代替足る発言ツールを持たないまま、病院中心になった日本の医療や医学を引っ張っていく牽引役になる一方、そのひずみや矛盾もぐだぐだに抱えていくようになり、、、というのが現在の状況でしょうか。

私個人は、厚労省や健保連の非科学的な制限医療が現場を困られているのは事実で、武見の言った「厚生省の官僚など医学を学んでいない者が診断や治療の方法や金額を決めないで、医学会に任すべきである」という考え方(まあ、金額はともかく方法の部分には)には大きく共感を覚えます。でも、武見体制時代の方法論は現代、とうてい選択できないでしょうし、するべきでもないでしょう。武見体制のルサンチマンを引きずった厚労省が財務省のプレッシャーも合わせて現在の管理体質を抱くようになった、、、という解釈が正しいかどうかは知りませんが、さて、この国はどこへ行く、、、、

抗生物質王国の夕陽3

1987年に、ある大新聞にエイズに伴うカリニ肺炎にステロイドパルスを使用したらよくなった一例、というとある大学病院の経験が記事になりました。で、そのタイトルが

エイズ死の最大原因、カリニ肺炎に切り札 ステロイド大量療法

です。もちろん、現代の私たちはPCPにステロイドパルスは有害であっても無効なことはよく知っています。過去の医師が今の医師の知っていることを知らないのは当たり前で、問題はその点ではありません。問題なのは、一例報告レベルで「切り札」と喧伝した大学病院の医師と、それに乗っかったメディアにあります。

EBMという言葉がカナダで誕生したのは1990年ですから、80年代はプレEBMの時代です。しかし、EBMとて雨後の竹の子のようにある日にょっきり生まれてきたわけではなく、そこにはちゃんと伏線がありました。それは、目の前の臨床データをいかに「妥当に」吟味していくかどうか、という模索でありました。RCT、エビデンス、という用語はその方法論として提唱されたので、問題の根っこは「目の前のデータは臨床的に妥当か?」という問いを投げ続けることであったと思います。

実は、ほとんど同じ時期にフランスでエイズ患者のPCPに対してサイクロスポリンを投与してよくなった、という6例の報告がされています。これも今の目から見ると「なんちゅうやばいことを」という感じですが、問題の核心はそこではありません。この報告に対して、米国のNIHは「たった6例の報告で治療法として確立されていると信じるのはあまりに妥当ではない」と反論したのです。つまり、プレEBMの時代においても米国においては数例の症例報告を治療法として確立されるのは「妥当ではない」と理解していたのでしょう(すくなくとも、研究者レベルでは)。フランスなど欧州各国にEBMが入って行くにはタイムラグがありましたし、特に80年代はプレインターネットの時代でもありますから、もしかしたらこの時代は日本とヨーロッパは同じようなコンセプトで治療を評価していたのかもしれません。もっとも、もしかしたら当時過熱していた米国とフランスのエイズ研究ヘゲモニー争いで両者が反目しあっていただけなのかもしれませんが。いずれにしても、一例報告を持って「切り札」なんて呼べない、とプレEBM当時の彼らは考えていたのだと思います。

米国も「エビデンス」一辺倒なのではありません。それは保険会社の干渉もありますが、単なる習慣や勉強不足が原因のことも多いです。我々日本人医師が米国医療に接するのはほとんど教育病院ですが、非教育病院ではまた別の医療が展開されており、米国の病院の大多数はそういう非教育病院です。そこで、私たちの経験だけではなかなか「米国医療」は分かりづらいのですが、データを見ると、例えば気道感染症や尿路感染症でも多くの在野の医師は学会ガイドラインの推奨通りに治療薬を選択していません。その是非はあるでしょうが、それが米国の一つの現実です。また、「私がいた病院ではこうしていた」という経験も根拠に基づいたものなのか、習慣がなしたものなのかは割と区別するのが難しいです。私はある時期、ヨーロッパやオーストラリア、南アフリカの家庭医と一緒に仕事をしていた時期がありますが、「スタンダード」と信じていたやり方が意外に北米以外では受け入れられていないことを知って結構びっくりしたことがあります。日本に帰っても適応障害に陥らなかったのはこのときの経験のおかげです(もっとも、大学病院に異動したときはかなりカルチャーショックを受けましたし、今も毎日驚きの連続ですが)。

エビデンス=RCTではない、というのも大事な、しかしときどきすっぽかされる点であります。最近、Annals of Internal Medicineのpodcastで米国で初めてペニシリンを使用したときの経験がインタビューで語られていました。当時のペニシリンの現場にもたらしたインパクトは相当なものだったようで、いままで死亡宣告だった重症感染症の患者がどんどん治っていくのを目の当たりにして医師達は戦慄したと言います。1930年代、ハーバードの医学生が熱を出し、皮膚の点状出血を見て自身が心内膜炎に罹患したと悟り「私はあと数ヶ月で死ぬでしょう」と語ったと言います。当時の細菌感染症はそういう病気だったようです。今に至るまで敗血症・敗血症性ショックにおける抗菌薬の立ち位置は、エビデンスなしだが推奨度Aみたいな感じですが、それはこういう歴史的経緯をたどったからなのでしょう。PDA(palmやiphoneじゃなく)へのインドメタシン治療も歴史的コントロールとの死亡率の差があまりに大きかったためにランダム化試験はされなかった、と記憶しています。
 面倒くさい言い方をすると、power計算の時の両群にあまりに違いがあり、「一目瞭然」レベルになったときはランダム化試験も不要か、あっても少数のトライアルでOKなわけです(その理由はpower計算のやり方を見ればわかります)。よく、製薬メーカーが「このトライアルは数万人規模でやった巨大なエビデンスでして」とか言ってきますが、数万人も使わないと差が分からないなら、臨床的な意義はその程度、という考え方だってあるわけです。敗血症性ショックに対するステロイドは、効く、効かない、やっぱり効く、いやいや効かないと少女の花占いみたいに揺れまくっていますが、このことが私たちに教えてくれることは、ステロイドが効くにしても効かないにしても、その臨床的な意義はちょびっと、、、ということだと思います。ここに人間の恣意性が強くプッシュされているので、論文、データ、ガイドラインから当該者の恣意性や思い、主張を完全に取り除くのはどだい不可能だということも自戒を込めて認識したいと思います。

さて、1980年代は薬の乱用と医療費削減というメーカーと厚生省の争いの時代でもありました。この時代、世界の薬剤消費のトップ国は米国でした(いまでもそうです)。2位が日本です。そして、日本の薬剤費のうち、何と20%以上を抗生物質(当時の表記のまま)が占めていました。当時の新聞記事をひもといてみると、「○○製薬の牽引役、ペコポコマイシン」「○○マリン、大ヒット」というバブリーな記事が載っており、製薬メーカーはどんどん抗生物質を大量販売し、株価もうはうはに上がっていた、という時代です。プロパーさんが病院中にはびこり、医者はその提供する情報と先導に載っかってバブルな時代を回していたのでした。

これに対して厚生省が取った対策は今から考えると稚拙としか言いようのないものでした。すなわち、普及して売れている抗生物質の薬価を無理矢理に下げたのです。そして、申請されていた量の大きな抗生物質も使いすぎになるといけない、という理由で承認を拒む姿勢を見せています。このことが、現在の日本の抗菌薬量の不適切な運用の遠因の一つになっていると思います。また、無理矢理価格を下げられたメーカーはどうしたかというと、薄利多売戦略に転じるようになり、益々抗生物質はむりやりな適応でもって無理矢理使われるようになります。抗菌薬の適正使用という点にメスを入れずに値段だけ操作すれば何とかなると考えた役人の浅はかさのうんだ失敗です。そして、それにまんまとのっかった学術界や医者、薬剤師の失敗でもあったでしょう。また、このことは臨床的には価値があるんだけど単に「古い」という理由だけで薬価が下げられ、場合によっては販売停止になり、ちょっと側鎖を代えただけのme too drugsの跳躍の原因となり、広域抗菌薬使いまくりの温床になりました。まあ、もっとも米国も(若干経緯は異なりますが)似たような歴史を歩んで、似たような泥沼にはまってはいますが、、、、、、

1981年10月29日の日経夕刊には、当時の日本病院薬剤師会常務理事の寄稿でこんなことが書かれています。

(quote)
「ちょっとカゼをひいたようなんですけど……」。お医者さんにかかると、帰りがけにプラスチック包装のカプセルやポリエチレンの袋に入った薬を看護婦さんが紙袋に入れて手渡してくれる。「お大事に——」。私たちがよく手にする袋の中身は、たいていが抗生物質、解熱剤など。さらにせき止め薬などの場合もある。
 開業医や病院で最もたくさん使っているのが「抗生物質」だ。日本では年間約八千億円分をつくっている。抗生物質は、細菌感染症の治療薬。カゼというのはそもそも細菌より下等な生物であるウイルスが原因でかかるのだが、カゼがちょっとでもこじれた状態になると、それを引き金に気管支炎や肺炎など細菌感染症を併発する。抗生物質はこうした症状を抑える働きがある。
 ところで人間の体内にはもともと良い細菌と悪い細菌がバランスよく共存していることが明らかになっている。しかしなんらかのきっかけで体が弱ると、このバランスが崩れて人体に害になる細菌が異常に増えてしまう。こうした“悪い細菌”の増殖を抑えるのも抗生物質の重要な役割。そこでたとえば手術後の患者などにも抗生物質をたくさん用いる。(unquote)

私は、この1980年代から90年代あたままでのバブルの時代が、日本と北米を大きく分けてしまった分水嶺ではなかったか、と仮説を持っています。現在の日本の医療現場(少なくとも今私がいるところ)では、80年代の亡霊がまだ闊歩しているように思えてなりません。

最後までお読みいただいた方、ご苦労様でした。

抗生物質王国の夕日(追記)

過去の出来事に現代の目で指摘するのはやや残酷です。そんなことをしてしまえば、織田信長も徳川家康も単なる大量殺人者になってしまう。

ただ、厚生省・厚労省が医療費との絡みで抗菌薬を勝手に操作していた当時の記事は、現在の医師数などの調整で医療費を安易に削減に走って起きた「医療崩壊」とパラレルです。要するに同じ構造で間違い続けているのです。そして、その当時の失態が今にいたって改善されていない、そういう構造こそに問題があるのでしょう。

私は、少し前に結核行政の問題点にもの申し、厚生労働省結核感染症課の役人と議論しました。彼は亀田総合病院で研修を受けていて、まともな臨床医療とは何かをよく理解している人物でした(医師免許を持っていて医系技官だからといって「現場」を知っていると思ってはいけませんから、彼のような存在は貴重です。短期間の表面的な「見学」だけで終わっていることも多いのです。そういう人が「現場を理解しています」という場合が実は現場を全く知らない場合よりも危険が多いときすら、あります。でも、理不尽な異動でそういうアセットを無駄遣いしちゃうんだなあ)。

議論を尽くし、行政と医療現場のギャップを少しでも埋められれば、と期待したのに、今年、彼は別の省に異動してしまいました。こうして、1−2年おきのローテーション、ジェネラリストという名前の付いた、その実、生涯初期研修医状態の霞ヶ関の論理がはびこります。

歴史を振り返る場合も、事実や事物を見るのではなく、「構造」を見るのが大事です。感染症構造主義って感じでしょうか。

抗生物質王国の夕陽

現在、故あって日本の臨床感染症界の歴史を調べ直しています。過去の新聞報道を読み直すと、私たちがなぜ今このような立ち位置にいるのか、いろいろ考えさせられます。いくつかご紹介しましょう。

1983/07/01, 日本経済新聞 朝刊

「抗生物質のトップメーカー」塩野義製薬がシオマリンで収益を伸ばしている、という記事。

「八千六百億円(生産額全体の二二%、五十七年)と医薬品の最大マーケットで、かつ最大の激戦区でもある抗生物質の分野で、武田薬品工業、藤沢薬など競争相手を抑え、引き続き先頭を走る自信が吉利社長の強気の発言の背景にあるようだ。現在、同社は抗生物質だけで月商十億円以上の大型商品を五品目もかかえており、“抗生物質王国”と呼ばれているのもうなずけよう」

という感じです。今だったらこんなコメントをすれば大ブーイングで株価が下がってしまいそうです。この時代、抗生物質は医薬品業界の牽引役であり、使えば使うほどよい、という流れを作ってしまいました。

そんな中、

1981/12/29, 日本経済新聞 朝刊

藤沢薬品工業(現アステラス製薬)などが2グラム入りの第3世代セファロスポリン(記事には説明無し)を申請していたのですが、厚生省が「2gにすると高額」という理由で難色を示し、販売中止になったという記事。日本独特の少量投与の流れができた理由の一つが、ここに垣間見ることが出来ます。

「厚生省はその理由として(1)大容量品の標準品に対する薬価倍率がこれまで日本では欧米諸国に比べ高かった(2)容量の多い規格品が大量に出回ると標準品で間に合う場合にも気軽に大容量品が使われ、水増し請求に使われる恐れがある――などを挙げている」

この役所の安易な決定が、その後数十年にわたる日本感染症界に大きな禍根を残したのでした。薬価を効能より重要視するような判断が(新聞報道されても平気なほどに)当然視されていた、黄金の80年代、という感じです。

1981/10/29, 日本経済新聞 夕刊

日本病院薬剤師会常務理事 国田初男氏の論説。一部、紹介します。みなさん、口あんぐりの準備はよろしいですか。

「開業医や病院で最もたくさん使っているのが「抗生物質」だ。日本では年間約八千億円分をつくっている。抗生物質は、細菌感染症の治療薬。カゼというのはそもそも細菌より下等な生物であるウイルスが原因でかかるのだが、カゼがちょっとでもこじれた状態になると、それを引き金に気管支炎や肺炎など細菌感染症を併発する。抗生物質はこうした症状を抑える働きがある。
 ところで人間の体内にはもともと良い細菌と悪い細菌がバランスよく共存していることが明らかになっている。しかしなんらかのきっかけで体が弱ると、このバランスが崩れて人体に害になる細菌が異常に増えてしまう。こうした“悪い細菌”の増殖を抑えるのも抗生物質の重要な役割。そこでたとえば手術後の患者などにも抗生物質をたくさん用いる」

うーん、ウイルスって細菌より下等だったのか、、、ってこういうディオちっくな部分が突っ込みどころなのではありませんよ。黄金の80年代ならぬ、日本暗黒の80年代、、、、バブル崩壊後の失われたうん10年よろしく、日本がこの時代に失ったものはあまりに大きかったのでした。

今まで死ぬ病気だった重症溶連菌感染症が劇的に治った!と先に紹介したアメリカ初のペニシリン使用を目撃した先生はインタビューでそのときの感動を伝えてくれます。もちろん、抗菌薬は人類にとって福音だったのです。しかし、なぜ、こんなことに。考察は続きます。


2016年12月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
無料ブログはココログ