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現場で役立つ医療倫理、医療哲学

あなたもEPOCはやめませんか?

神戸大学病院では初期研修医の相互評価システムEPOC使用を止めることにしました。

まえまえから評判の悪いシステムで、指導医からも研修医からも愛されていないシステムでした。俺はEPOCのおかげで医者として成長された、なんて研修医もいないでしょうし、これを基準に就職や昇進が決まったドクターも皆無でしょう。評価のアウトカムが得られず、そのコストは多大だったのでした。評価にコストがかかる、という単純な事実を直視しなくてはならないのです。これは、新型インフルエンザ診療リソースも無尽蔵にあると考えてしまう誤謬とパラレルです。

たぶん、偉い学者さんが頭の中で、机の上で考えた産物だったのでしょう。たとえて云うならば、世界で一番多機能な携帯電話みたいなもので、それは専門家的には他の専門家の度肝を抜く産物でしょうが、ユーザーにとっては「一番使いにくいケータイ」に決まっているのです。

おかみに決めてもらうおせっかいさとおかみに依存する[共犯関係」とはそろそろ決別しなくてはなりません。あなたも、EPOC、止めてみませんか?楽になりますよ。

指導医養成ワークショップ

 今度、某日某所で行われる指導医養成ワークショップの話題をまとめてみました。
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 先日、うちの職員と話をしていて面白い発見をしました。彼女は阪神大震災を体験して、大変な思いをしましたが、それ以来「ちょっとの揺れ」でも敏感に反応してしまうのだそうです。ところが、彼女の弟は全く逆で、「あれだけ大きな揺れを経験したのだから」ちょっとやそっとの揺れでは全然動じなくなってしまったのだとか。

 このように、全く同じ体験をしてもとらえ方は完全に逆になってしまうことはあるのですね。講演後のアンケートを採っても、同じ内容なのに「テンポがよくてよかった」「早すぎてもっとゆっくりしゃべってほしかった」と逆の感想が返ってくることがあります。

 「医学教育」の教科書は、一義的に「こういうことを言うと研修医はこう感じるから止めた方がよい」的なアドバイスが多いですが、眉につばをつけて聞いた方がいいんじゃないか、と思います。

 例えば、指導医が権威的な態度を取っていると、研修医も権威的になる可能性があります、、、、という記述をある医学教育の教科書で見つけたことがあります。しかし、それはおそらくは、定量的な心理学的研究から得られた「傾向」に過ぎず、全ての研修医がそのような感じ方をするとは限りません。たぶん、「ああはなりたくないな」と権威に対して嫌悪感を抱く研修医も少なからずいるのではないでしょうか。なんとならば、反権威的な感情は、権威の中でこそ生まれてくるからなのです。

 専門家は、しばしば定量的な心理研究を(それもかなり限定された条件下での、ですが)ものすごく引き延ばして一般化し、教科書化しますが、それには要注意です。そのような仮想空間で作り出された「エビデンス」は現場の空気に全く合致していない、要するにapplicableではない、ことが多いのです。

 しばしば引き合いに出す例は、「叱り」と「虐待」の違いです。欧米の教育専門家は、「虐待にあった子どもは自らが虐待者になりやすい(そういう「傾向」がある)。だから、叱るのはよくない」とよく考えると全然論理的でない台詞を平気で口にします。この文章が論理的、原理的に間違っているのは明らかです(つまり、主義主張、意見の違いとは関係なく間違っている)から、興味のある人はなぜそうなのか、構造的に検討してみてください。

 もちろん、このことから、研修医は叱りとばしていればいいのだ、という結論にはなりません。問題は、叱るか叱らないか、ではなく、「いつ」「どのように」叱るべきか、という観点です。つまり、目的・アウトカムに準拠して、目の前のあるキャラクターの研修医のある感情的、体力的状態を鑑みて、どう接すればいいのか、という微妙な対応となります。その状態によっては論理的な言及が有効ですし、感情的なサポートが有効ですし、叱咤激励が有効ですし、黙って見守ることこそが有効なのかもしれません。いずれにしても、どの方法がベター、というのではなくて、いつ、どの手段をとるのが、が大事になります。

 コーチングではペーシング、というスキルを使いますが、上記のような教育のしかたも一種のペーシングといえましょう。相手のあり方に合わせてこちらの教育方法や態度も変えていき、ゴールを見据えていくという部分においては。

 医療の世界においては絶対善や絶対悪が存在しにくく、その意志決定や振る舞い方の是非も賛否両論で、時代においてもどんどん変わっていきます。キャラクターも大事で許される行為と許されない行為は、その人のキャラによって決まってくるところもあります(許されるキャラっていますよね)。だから、キャラというのはとても大事なのですが、そのくせ教育の世界では「人格攻撃をしてはならない」と教条的にのたまいます。もちろん、人格を攻撃するのは御法度ですが、しかし人格≒キャラのもたらす意味は、医師という仕事の中では大きいものなのです。そこを無視して「キャラにはタッチせず」の態度を決め込むのは、あまりにも実態からかけ離れているのではないでしょうか。キャラは否定してはならないですが、キャラへの働きかけはむしろ必然です。だってそこに厳然としてあるものなのですから。

 所詮、指導医が研修医にできることは限られています。幻想や伝説、えせ科学とはおさらばして、しなやかに柔軟に、程よい熱意を持って考え直してみる必要がありそうです。

ほうれん草のパラドックスとは

 よく聞く教条的なフレーズには要注意です。それが普遍的に無批判的に普及していればいるほど、リスクも高まるようです。テレビで喧伝されるような「当然」と思われていることも、当然ではないかもしれません。このような頭の使い方で、一見観念的と思われがちな「哲学」が現場で活きてきます。

 例えば、私たちの業界では最近、no blame, no shameということがよく言われます。叱ってしまうと「研修医たちがさらに情報を隠そうとするかも知れない」(日本内科学会雑誌2008;97:174-)から叱ることなく、褒めましょうね、という考え方で、よく米国で使われる技法です。なるほど、一見するともっともな意見ですし、そういう側面はあるかも知れません。

 さて、ここでの「ほうれんそう」とは、ポパイの好きな、あのお野菜のことではなく、「報告、連絡、相談」のことです。研修医が情報を自分たちだけのプロパティーにしてしまい、指導医に伝えないとあとで困ったことになることがあります。「聞いてないよー」と指導医が嘆く一瞬です。研修医の一挙手一投足すべて監視することは物理的にも困難ですし、研修医だってやりづらいでしょう。しかし、ほったらかしで情報チェックをしないとときどきやばいことになるかもしれないのです。だから、報告、連絡、相談を十分にしてもらい、現場でのトラブルを回避しようとするのですね。
 さて、ここに一人の研修医がいて、この「ほうれんそう」を怠ったとしましょう。患者に不都合が起き、例えば合併症が起きてしまったとしましょう。指導医がその情報をもっていれば簡単に回避できたであろうトラブルです。
 さて、こういうとき、指導医は叱ってはいけないでしょうか。報告、連絡、相談を怠ったことが問題なのですから、それを叱責したとき、「報告、連絡、相談すること」を「隠す」という可能性は小さいと思います。なぜなら、もし「報告」を再び怠れば、さらなる叱責が待っていることは容易に想像できるはずだからです。むしろ、ここで下手に「褒めて」しまえば、「ほうれんそう」の重要性は研修医に認識されず、むしろまた同じ問題が起きてしまう「可能性」はあります(この、「可能性がある」という言葉はある種のオールマイティーカードで、使い方には要注意です。どんなときだって「可能性がある」といってしまえば、それまでで、それ故科学性に乏しい危険性があります。無謬であらゆる条件で使用できる言葉は、それ故に意味がないからです)。
 したがって、叱ることが隠蔽のリスクを産んでしまう「がゆえに」叱ってはならない、no blameでいこう、という主張は、「ほうれんそう」問題においては「原理的に」適用することはできないのです。そして、この例外事項1つが原理的に確かであるため、すくなくともno blameは原理的に、全てのシチュエーションでは応用できないことになり、一般化も困難であるということになります。
 私たち指導医は、no blameという言葉を聞いて無批判に飲み込んでしまうのではなく、他の全ての事物同様、no blameには原理的な制限limitationがあるので、使えるときと使えないときがあるよ、ということを理解しなくてはならないのです。

 とまあ、哲学的なアプローチはこのように現場で応用することが可能です。常套句、常識を疑うとき哲学とはパワフルなツールだからです。

 もっとも、上記のことは現場にどっぷり浸かっていれば直感的には「当たり前じゃん」という感じもしますね。褒めてばかりで指導なんて出来ないし、叱責したらいきなり隠蔽体質になる、と決めつけるのは、まるで「資本主義社会は必ず崩壊する」みたいなうさんくささを直感させます。でも、指導医講習会などに行くとno blameは大事、みたいな言説は山のように出てきます。それで指導医は現場の感覚との乖離を感じ、困難を覚えるわけです。

 もう少し、この問題を続けましょう。オリンピックでは日本野球は散々な負け方をしてしまいました。国内ではがっかりしたり、怒ったりといろいろな反応があったようです。エラーが続いた選手もいました。随分落ち込んだと思います。
 でも、オリンピックでエラーを続けたからといってプロの選手を辞めてしまうわけにはいきません。そうはいっても日本代表ですから自分のチームでは主力選手です。気持ちを切り替えて今日も明日もプレーしなくてはなりません。それがプロなのです。
 人間、反省しなくてはならないことはたくさんありますが、スポーツのエラーみたいな事象はさっさと忘れた方がむしろプラスのようです。下手に反省会とかしてしまうと、余計なフラッシュバックが起きてあまりいいことはありません(だから、エラーが続いたのかも知れません、オリンピックでも)。
 とはいえ、しばらくはこの選手への風当たりは厳しいと思います。相手チームサポーターからはきつーいヤジも飛んでくるでしょう。「○○選手の所へ打てば落としよるぞ!」くらいのことは言われそうです。
 それでも、プロはプレーで応えるしかすべがないのですから、ヤジにも負けず、批判にも負けずプレーは続けなくてはいけません。
 さて、何が言いたいかはだいたい伝わりましたでしょうか。no blameというのは結構大事なコンセプトで、医療現場でも応用可能です。特に未熟で緊張している初期研修医を教えるときは基本路線は褒めた方が有効なことが多いようです。
 しかし、たとえ「指導医が」叱らなかったとしても、プロの現場は世知辛いのです。患者や家族からの苦情、ナースからの叱責から完全にフリーで医者を続けていくことは不可能です(そんなひと、いるかな)。その苦情や叱責も、ときに、いやしばしば理不尽だったりするものですが、それでめげずに毎日がんばっていくのがプロの医師です。また患者が重症化したり、死亡することもあります。これらはショックな出来事ですし、辛い気持ちになります。でも、だからといってその度に落ち込んで次の日から職場に来れない、なんて医師では現場で機能しないのです。このように、困難や苦境に打ち勝つメンタルストレングスは、プロの医療者には必須の要素です。
 思うに、no blameとは、基本的にアマチュアの教育において有効な手法です。そろばんやフラダンスを習いに行ったら、毎日毎日褒め続けてあげればいい。どうせ失敗したってだれかに迷惑をかけるわけでもないし。
 しかし、プロの世界は違うのです。批判や苦情は必ず受けますから、指導医にちょっと叱られたくらいで萎縮されても困るのです。そのようなメンタルトレーニングも含めての研修医教育です。それから、患者が重症になったり自分のミスで患者を悪くしたときは、がーんと落ち込んでしまう「べき」です。自分の患者が悪くなっても知らん顔、という無責任な医師は情操教育上よろしくないわけで、こういうときもがーんと叱ってやって構わないのです。これは、「忘れてしまう」べき、といううえの主張と矛盾するわけではありません。患者に申し訳ない、とどっぷり落ち込む感受性と、それを乗り越える精神の強さを両方持っていなくてはダメでしょう、という意味です。落ち込んで立ち上がれないほど弱くてはダメですし、かといって全然気にならない、というほど無神経でも困ると言うことです。

 叱るか、褒めるかという二者択一の議論は、「ゆとりか、詰め込みか」というあの不毛な議論を思い起こさせます。そうではなく、あるべき議論は「どんなときに叱り」「どういう場面で褒めるか」というところだと私は思います。もっともこいつは本当に、本当に難しい問題なのですが。

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